◇ 楽2009/07/19 17:54:27

 何かが聞こえた。見上げるとそこには音楽があった。

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 ワンピースの水着を来た美少女がバスの中に立っている。夢のなかでそんなイメージが浮かんだので、おれはそれを撮ろうと思った。宮橋に電話してモデルの候補を選ばせよう。自分で探しに行くのが本当なのだが、いまそれをやると問題になるだろう。ロケの手配は長谷川に頼ろう。一番安心して任せられる。バスの少女は何処へ行くのだろう。まわりの乗客はどんな反応をするだろう。少女は最初から水着で乗って来たのか、それともバスの中で水着になったのか。どうしてあんなにさびしそうな表情をしていたのだろうか。

 あやうくまた眠ってしまうところだった。もう一度寝てしまうと、もうイメージを覚えている可能性は限りなくゼロだ。こういう心から撮りたいと思えるイメージがわくことは滅多にないんだ。このチャンスを逃してなるものか。それからおれは身を起こし、そしてここが刑務所の中だということを思い出した。病院の待合室の長椅子のようなベッドの上で、長椅子のように足を降ろして座り、それでもまだしばらくバスの中の少女のイメージを追い求め、それを撮影する手段のことを考えてしまう。これを覚えていられるだろうか。仮に覚えていられたとして、出所する時にもおれはこれを撮りたいと心から思えているだろうか。そのころにもまだ宮橋や長谷川は一緒に仕事をしてくれるだろうか。

 次にこんな風に写真を撮りたいと思える日が来るのはいつのことだろうか。暗い独房の中でそう考えてからおれは舌打ちをした。どこか他の房からくぐもった怒鳴り声が聞こえた。寝言なのかもしれないが、まるでおれの舌打ちに反応したように思え、おれはびくっとする。そしてびくっとなった自分が情けなく、余計に悲しくなる。次にこんな風に写真を撮りたいと思える日が来るのはいつのことだろうか、だって? 次なんかありはしない。おれにはもう写真を撮る日など来ない。おれにはその資格がない。

 昔はこんな風じゃなかった。おれはカメラを持って出かけることそのものが好きだった。行く先々で何でも撮った。人でも、花でも、車でも、街角でも、自然の風景でも。撮りたいものは世界中にあふれていた。歩いていても、バスに揺られても、電車の中でも、世界はおれに撮られるのを待っていた。おれがカメラに収め、現像し、焼き付け、トリミングし、世界の見方を決定づけた。

 世界はおれに見て欲しがっていたのだ。わたしの一番綺麗なところを撮って。それを写真にしてみんなに見せて。わたしの一番綺麗なところを。かわいいところを。魅力的なところを。アンニュイな表情を。はかなげな様子を。恐ろしい形相を。奔放な姿態を。他の誰にも見せたことのない、あなただけに見せる姿をカメラに収め、わたしのほんとうをみんなに教えてあげて。わたしは本当はどんなに美しく、可憐で、楽しく、偉大で、恐ろしく、あさましく、淫らで、そして神々しいかを、その正しい見方を教えてあげて。わたしを撮って。わたしの匂いを撮って。わたしを舐めるとどんな味がするか、わたしの肌触りとぬくもりはどんな風か撮って。わたしの声と歌を撮って。

 いつしか世界は閉ざされてしまった。おれは言われて渋々カメラを持ち、仕事をくれる知り合いに愛想笑いを浮かべ、スタジオのクルーに当たり散らし、確信の持てないままライティングを決め、モデルに歯の浮くような声をかけ、シャッターを押す指に力を入れる。そのうちろくでもない連中からしか仕事が来なくなった。アブノーマルなポルノだの、児童ポルノだの、浮気の証拠写真だの、樹海の遺体だの、浮浪者の遺体だの、そんなものを言われるままに撮っていてはおれもカメラも駄目になって行くのはわかっていたが、おれにはそれを止めることができなかった。

 スナッフフィルムと呼ばれるものが存在することは聞いたことがあったが、それはあくまでも都市伝説の類で、ホラームービーのネタのようなものだと思っていた。だから連れていかれた現場で女が犯され、切り刻まれ、死に至るまでを撮影してはじめて、おれはそれが実際に存在することを知った。何も考えずにシャッターを切り続けていたが、全てが終わってはじめて女が泣き叫んでいたのは演技でもなんでもなく、おれはただ欲望を満たすためだけの殺人の片棒をかついでしまったことを悟った。その日どうやって家に帰ったのか覚えていないが、気がついたらカメラの機材をそっくりどこかに置いて来たらしく、家の中には見当たらなかった。そしてそれでいい、とおれは思った。おれはどうすればあの女に償えばいいかわからず食べることもできずただ家に閉じこもり続けていた。警察が踏み込んで来た時には救われたとさえ思った。

 突然目に光が当たり、おれは小さく悲鳴を上げて光源を見た。それは独房の壁の高いところに開いた小さな窓から差し込む月明かりだった。満月に近い月がやけにくっきりと明るい光でおれの顔を照らしていた。次の瞬間、おれはその光景を少し離れた場所で見ていた。独房の高い窓からさえざえとした月の光が流れ込み、ベッドにすわる男の顔を照らしている。その独房は縦長の箱のようなもので、そこには月の光が次から次に入っていく。独房の中は月の光の断片で満たされていく。離れたところからおれを見ているおれは、すでに独房を離れ、その縦長な箱を外から眺めている。投票箱だ、とおれは思った。それは信任投票なのだ。その男に、ベッドに腰掛ける男にまだ世界を撮らせるかどうかを、世界が投票で決めているのだ。独房を満たしていく光を見ながらおれは祈った。撮らせてください。

 その瞬間、おれは独房の中に戻っていた。月は角度を変えたらしくもう独房の中は暗闇に戻っていた。たったいま見たビジョンに身体が震えていた。そして気がつくとおれはまだしきりに撮らせてください、撮らせてくださいと呟いていた。頬を熱い涙が流れていることにもその時になって初めて気づいた。どこかからまた怒鳴る声が聞こえたがもう気にならなかった。おれは手を合わせ、はっきりと撮らせてください、撮らせてくださいと祈った。

 その時何かが聞こえた。見上げるとそこには音楽があった。月がいなくなった窓から見える小さな夜空に、月明かりを浴びた雲がすばやく流れ去るのが見え、おれにははっきりとそのメロディーが聞こえたのだ。手元にカメラはなかったがおれはその音楽を撮った。そしてこれを最初の一枚にしますと胸の内でつぶやいた。

(「投票」ordered by いんちょ〜♪♪-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)