◇ 桜(後篇)2009/12/19 11:48:06

(前篇【17】桜(前篇)×野外公演より続く)

 ブザーが鳴って、のっそりと男が入ってきた。仏頂面の男だ。肩幅が広く、ずんぐりとして、鍛え上げた分厚い筋肉の鎧を身にまとい、近づく者を片っ端から傷つけずにはいられない、とでもいうようなコントロールのきかない感じがする。そんな男だったっけ? とおれは奇妙に感じる。誰か、よく似た別人が入ってきたのだろうか?

 男は数歩進んだところで足をとめ、ギャラリースペースをじっくり眺め渡した。そして短く鋭く、ただいま、と言った。おれも思わず、おかえり、と返したくなったが、ギャラリー全体も同じように感じたのかどよどよと返事をしそうになった気配があった。その気配を感じてか、男は少し目を細めた。傍らに大振りなデュラレックスのグラスを見つけワインを注ぐと口に含み、ワインの入ったグラスを握ったままのしのしとギャラリーの奥へと足を運んだ。

 ギャラリーの一番奥で語り始めたのはしかし、ひとりの少女だった。彼女は山奥の村に暮らしているのだが、村に病人が出たのをきっかけに父とともに薬を求めて旅に出る。伝説ではすべての病気を治療する魔法医が暮らす国が大いなる水の対岸にあるというのだ。

 夢見がちな少女は物に触れては、その物にまつわるいつかどこかの不思議な場面を思い描き、語ることができた。村では彼女の語る幻想的な話を聞きたいばかりに、わざわざ危険を冒して古代の遺物を拾いに遠く村を離れてさまよう者もいた。それほどに少女の話は現実離れして、想像力を刺激したからだ。そう、少女の語る話はいずれも突飛なものばかりだった。

 虹のように鮮やかな色をしたものどもに取り囲まれた暮らし。火を自在につけたり消したり、遠くの人と顔を合わせることもなく声を出すこともなく意思を通じ合わせる能力。一瞬にして水やお湯や氷を取り出す魔力を誰もが、子どもさえもが持っている世界。あまりにも荒唐無稽でばかばかしいのに、それを聞くうちに誰もがなぜか懐かしいような狂おしいような思いに捕われ、心かき乱される。そしてそれは決していやなものではなかった。

 傍らのほっそりとした透明な器物を少女が手に取る。そしてそれが花瓶と呼ばれていたこと、その花瓶がどのようにして生まれ、どのような街角でどのようなものに紛れて売り買いされ、誰に家にやってきて、その家の女主人の悲しいひとりごとをどれくらいたっぷり聞かされたか語る。その女の家は杉よりも荒地岳よりも遥か高い場所にあり、そこへは歩くことなくまっすぐまっすぐ運ばれて行くのだという。

 そういう便利なものがここにもあればいいんですがね、と不意に男が現れて言った。夢中になって男の物語に聞き入っていたギャラリーの観客がどよどよと笑う。そこでおれは初めて自分が自分自身のギャラリー兼オフィスにいて、男の話に聴き入っていたことを思い出した。男はこのビルにエレベーターがないことをからかっているのだ。言ってみればギャラリーの主のおれ自身がからかわれたようなものだが、それに反応する余裕はなかった。

 おれはくらくらしていた。たったいままで自分がいた遥か文明以前の世界のリアルさに目眩をおぼえていたのだ。むんとするような草いきれ。質素な村での生活。食べ物。少女と、少女の語りを求める村人たち。その中の何人かは少女と親しくなりたい、身体の結びつきを持ちたいと切望する若者たちだった。おれは彼らの顔や名前すら知っているような気がした。

 そうこうするうちに少女は村を離れ、父とともに遥かなる冒険に出かける。そしておれは初めてその世界が文明以前の古代ではなく、いまから何百年か何千年か後の世界、何かの災厄があっていまの文明が滅んだ後のアフター・ワールドであることを知った。少女が手にする物とはつまり、たったいま、現在おれたちが使っている道具たちのことだったのだ。

 少女(男)はギャラリー内のものを次々に手に取ると、それぞれの謂れのものがたりを話し始める。それはおれたちにとっては極めて身近で等身大のものがたりだが、少女の世界においてはあまりにも現実離れしていて、少女と同行している父親は大笑いしたり、感嘆したりしながら感想をもらす。それは絶妙な文明批評になっていて、それを聞いているおれたちは顔をしかめて笑うことになる。

 中盤、少女と父親が国立新美術館の遺跡を訪れるシーンは圧倒的な迫力で、ギャラリー内は静まり返った。徐々に明らかにされる過去のものがたりから、どうやら文明の破局は現在の我々からほど遠からぬほんの先に訪れるらしいことが分かってくるからだ。ジャングルに呑み込まれた国立新美術館の中の展示の日付の年号は最初の3桁が「201」なのだ。2010年よりは先、でも2020年よりは手前のいつか。

 父親は猪を狩る途中に負傷し、おそらく破傷風にかかって命を落とす。季節は秋になり、冬になり、広葉樹が葉を落とすとそこにはよりはっきりと文明の遺跡が姿を現し始める。凍えそうになりながら少女は旅を続ける。他の部族との交流の中で、あるいは助けられ、あるいは傷つけられしながら、やがてたどりついたのは海の見える高台だ。

 エンディングがどういうシーンだったのか、おれには説明することができない。ただギャラリーを埋め尽くす50人ばかりの観客はようやく訪れた春先のまだ冷たい空気の中、桜吹雪に囲まれて茫然と立ち尽くしている。少女が空に向かってあげる澄んだ高い叫び声に耳を澄ましている。おれはわけもわからず涙を流しながら、ああなるほどこれは野外公演だなと思っている。

(「野外公演」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 某2009/12/31 08:21:05

○男の回想
子ども(女1)「かあさん、この木はなんて木?」
母(男1)「樫だよ、なにガシ」
子ども「ナニガシ?」
母「そう、ナニガシ」
子ども「ナニガシっていうの?」
母「うるさいね。そう言ってるだろう」
子ども「じゃあ樅の木じゃないの?」
母「モミノキ? モミノキじゃないねえ」
子ども「じゃあクリスマスツリーにはできないの?」
母「クリスマスツリー? どうしてまたクリスマスツリーになんかするのさ」
子ども「クリスマスの飾り付けをしたいから」
母「どうしてまたクリスマスの飾り付けなんかしたいのさ」
子ども「クリスマスだからだよ」
母「じゃあ何かい? クリスマスだったらみんな飾り付けしなくちゃならないのかい?」
子ども「みんなしてるじゃないか」
母「みんながしてたらあんたは人だって殺すのかい?」
子ども「殺さないよ。それにみんなは人を殺してなんかいないよ」
母「おだまり!」
子ども「……」
母「おしゃべり!」
子ども「え?」
母「だまってないでしゃべりなさい場が持たないから!」
子ども「そんなあ」
母「うちはね」
子ども「え?」
母「うちはクリスマスはやらないからダメだよ」
子ども「どうして? どうしてやらないの?」
母「うちはイスラム教だからね」
子ども「ええ?」

○現在
男1「それがきっかけ」
女1「それがきっかけ?」
男1「そう。そんな風にしておれはムスリムになったんだ」
女1「なーんだ」
男1「なーんだって何だ」
女1「だってそれ、冗談でしょ?」
男1「ちっちっち。おまえはおれのおふくろを知らないからそんなことが言えるんだ」
女1「なに、 どういうこと」
男1「本当に改宗したんだ」
女1「本当に改宗した?」
男1「次の日の朝、おふくろは近所のモスクに行って改宗の手続きをしてきた」
女1「そんな。区役所の窓口じゃないんだから」
男1「甘いな」
女1「甘い?」
男1「イスラムに改宗するのは簡単なんだ」
女1「うわー嘘っぽい」
男1「マジだって。本当はモスクに行かなくったってできる。二人以上のムスリムの前で信仰告白をすればいい」
女1「信仰告白?」
男1「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー、アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー」
女1「ええと、イチ、イチ、なんだっけ」
男1「なにしてんの」
女1「救急車、呼ぼうと思って」
男1「イスラム教の信仰告白だ。『アッラーのほかに神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である』ってね」
女1「でも先輩が入信したわけじゃないんでしょ?」
男1「親がムスリムなら子どもは自動的にムスリムなの」
女1「いやならやめればいいのに」
男1「別にいやじゃなかったからな」
女1「それほんとですか?」
男1「本当だ」
女1「適当に言ってませんか、その、ラーラーとか言うの」
男1「え? 信仰告白を疑ってんの?」
女1「っていうか、全部」
男1「いいんだけどさ。それが、ほら、飲めない理由」
女1「なんかすっきりしないなあ」
男1「おい。人の宗教つかまえてすっきりしないって」
女1「普通に『クルマ乗ってきた』とか言われた方がわかりやすいんですけど」
男1「クルマ乗ってねーし、マジ、ムスリムだし」
女1「ふーん」
男1「あれー。信仰の話をしてこんなテキトーな反応がかえってくるのは日本くらいだぞ」
女1「うん。でも、まあ」
男1「まあいいや。じゃあおまえは?」
女1「え? 何が?」
男1「おまえのクリスマスの思い出」
女1「いいですよ私は」
男1「よかないよ。おまえが子どものころのクリスマスの思い出話しませんかって言ったんだろ?」
女1「言ったけど」
男1「言ったけど、なんだよ」
女1「なんか思ってたのと、違うし」
男1「じゃ、どういうの思ってたんだよ」
女1「えー。そうだなあ」

○女の回想
兄(男1)「バカだなあミホは」
妹(女1)「いるもん」
兄(男1)「いるわけねーじゃん」
妹(女1)「だっているもん」
兄(男1)「俺、去年見たもん」
妹(女1)「何を?」
兄(男1)「おかあさんが夜中にこっそり」
妹(女1)「見てないくせに」
兄(男1)「見たんだって」
妹(女1)「ミホは見てないもん」
兄(男1)「だから俺が見たんだって」
妹(女1)「ミホはお兄ちゃんが寝てたの見たもん」
兄(男1)「そりゃ寝てるときもあったけど」
妹(女1)「ずっと見てたもん!」
兄(男1)「寝ないで見てたのかよ」
妹(女1)「ミホは寝ないで見てたもん!」
兄(男1)「サンタも来なかったろ」
妹(女1)「お兄ちゃんのバカ!」
兄(男1)「おい泣くなよ」
妹(女1)「泣いてないもん!」
兄(男1)「泣くなって」
妹(女1)「サンタさんいるもん!」
兄(男1)「あー」
妹(女1)「なに?」
兄(男1)「あれかもしれない」
妹(女1)「あれって?」
兄(男1)「妖精だったかも」
妹(女1)「ようせい?」
兄(男1)「おれが見たの、妖精だったかも」
妹(女1)「なんで妖精なの?」
兄(男1)「あれだよ、サンタさんの手下」
妹(女1)「サンタさんに手下がいるの?」
兄(男1)「だってほら、一晩で世界中の子どもたちに配るわけだから」
妹(女1)「ふーん」

○現在
男1「どうした」
女1「ん?」
男1「おまえの思い出話は?」
女1「やっぱやめた」
男1「なんで」
女1「なんかフツーなんだもん」

(「妖精」ordered by Buy on dip かりん。-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 杉2009/12/31 09:08:41

 長生きの秘訣? 年寄りが言った。二、三百年考えさせてくれ。

 おれが返事に窮していると、冗談だよと年寄りは続けた。二、三百年も待ってたら、あんたもう生きてないだろう。はあ、まあ。おれは何とも情けない声で返事をした。冗談をいわれるとは思わなかった。もっと、こう、真面目な相手のような気がしていたのだ。

 あんたは長生きしたいのかね、と年寄りに聞き返されて、特にそういうわけではないと思った。長生きの秘訣を尋ねたのは、他に気の利いた質問を思いつかなかったからだ。ものすごい年寄りを目の前にしたら誰だってまずはその辺から聞いてしまうのではなかろうか。

 では長生きしたくないのか。そう改めて聞かれてまたまたおれは口ごもった。もちろんすぐに死ぬのはいやだけど、とりわけ長生きをしたいとも思わない。だからおれは素直にそう返事をした。ギネスブックに載りたいわけじゃないですね。
 ギネスブック? と年寄りが訊く。何だねそれは。
 おれはちょっと焦った。ギネスブックが何かを知らない年寄りにギネスブックについて説明するには何から始めればいいのだろう?

 ギネスというはビールのメーカーで、というところから語り起こすべきか、だからそもそもは酒を飲みながら話すのにうってつけな話題、すなわちギネスが進む雑学ネタを集めた本として、つまりはパブでのビールの売れ行きを促進するためのセールスプロモーションの一環として始まったらしいとか、いやいや、そんな本の歴史みたいな話はいらないだろう。もっとずばっと本の特徴を捉えて言えばよかろう。

 世界記録がいろいろ書いてある本です。おれは説明を試みた。毎年出版されていて、世界一爪が長い人とか、信じられないくらいのっぽの人とか、林檎の皮むきの記録とか、ものすごく太った犬とか、スポーツの記録とか、巨大な建築や、速い乗物や、珍しい生き物とかが載っていて、だいたい思いつく限りありとあらゆる世界記録が書いてあります。人間やら動物やらの世界一の年寄りも載ってますね。

 ふうん。年寄りはうなずいた。誰が読むんだね、そんなものを。
 誰が? そうですね、そういう変わった記録に興味がある人が。あ。そうそう。ギネスというのはビールのメーカーでね、そもそもは酒を飲みながら話すと面白そうな小ネタ集として始まった本らしいですよ。
 そうかそうか。酒を飲みながら話す内容か。それならわかる。
 しまった。やっぱりそこから語り起こせば良かったのか。

 London...
 えっ?
 When I was in London.

 年寄りは懐かしい時代を思い起こすように目を閉じ、うっとりした表情になって、しかも妙に綺麗なブリティッシュ・イングリッシュで話し始めた。自慢じゃないが学生時代英語では赤点をとり続けたおれはあわててさえぎった。ちょちょちょっと待ってください。おれ英語ダメなんですよ。

 年寄りは少しだけ目を開けると、冷ややかな横目でおれを一瞥し、また目をつむるとするすると首を引っ込め、前肢、後肢も引っ込めてしまった。たったいまのいままでおれに話しかけていた年寄りの姿はもうなく、そこには巨大な岩の塊然とした物体があるばかりだ。

 あの、とおれは声をかけた。すみません、余計なことを言いました。けれど返事はなく、おれの言葉はむなしくゾウガメ舍の空中に吸い込まれていった。とたんにおれは我に返ったようになった。真夜中の動物園。ゾウガメ舍でゾウガメに向かって独り言を呟く男、それがおれだ。ゾウガメが自分に話しかけてきたと思い込んで長生きの秘訣を尋ねたり、ギネスブックについて説明を試みたりしたが、全部幻聴だったに違いない。おれは頭がどうかしているのだ。女房と子どもと三人、幸せに暮らしているのに、自分が自分でないような、このままではいけないような気がし始めていたのも、少々頭がおかしくなり始めていたせいかもしれない。

 途方に暮れておれはしばらくそのまま立ち尽くしていたが、ゾウガメは動こうともしなかった。考えてみれば、ゾウガメは最初からそうやって寝ていただけなのかもしれない。喋っていると思い込んでいたのはおれの幻覚だったのだろう。ゾウガメがロンドンで暮らしていたなんて、どんな夢を見ていたんだ? おれは自分の想像力の突拍子もなさに呆れて少し笑った。

 ふと気づくとゾウガメの甲羅を掃除するためのデッキブラシを持ったままだった。甲羅の掃除が途中だったが、もういいだろう。バケツに突っ込んで洗って片付けよう。片付けて、宿直室に戻ろう。動物園はやめるべきかもしれない。これが最後のお勤めだ。目が覚めたよ、アルダブラゾウガメさん。解説ボードに目をやりながらおれは心の裡でつぶやいた。あんたのおかげで自分を見つめ直すきっかけになった。すごいな、アルダブラゾウガメさん。推定220歳。世界最長寿の生き物の可能性あり。セーシェル生まれ。セーシェルってどこだ? 全然わかんないぞ。1793年、フランス海軍に捕獲されパリ動物園へ。1815年、ロンドン動物園に譲渡。1952年、日本へ。上野動物園で人気者に。1973年から1988年まで天王寺動物園、1995年より当園で暮らす。……えっ?

 ロンドン動物園?

 おれは思わず声に出して言った。だから言ったろう。年寄りは続けた。ロンドンで暮らしていたってな。

(「London」ordered by frodohart-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)