◇ ぼくが今ここにいる意味 ― 2011/05/29 08:35:04
晴れた日は明るくなる頃に目を覚ます。明るくなるから目を覚ますのか、小鳥たちが活動を開始する気配に目を覚ますのか。とにかくそろそろ太陽が顔を出す直前に目を覚ます。洗面器に少し水を張り顔を洗った水で口をすすいでうがいもする。その水は表の菜園にまく。どんなに僅かな水も貴重だ。赤い首を覗かせ始めたラディッシュを掘り出し、丁寧に布で拭って塩をふってかじる。
簡単な朝食を終えると家族に声をかけて表に出る。行ってらっしゃいとかすかに聞こえた気がする。歩いて行くと何人か顔見知りの人に会い、おはようございますと挨拶をする。みんな日に焼けて、口を開けると歯が白く、総じてまぶしそうな顔つきをしている。今日はCの11を探そう。Cの11というのはぼくが勝手につけた区画番号で他の人には通用しない。たまに手伝いにきてくれる学生たちは理解してくれる。
Cの11はかつて商店街だった一角だ。明らかに元々この場所にあったとおぼしきものもたくさん見つかるが、もちろんそれだけではない。あの日、この場所は何度も潮に洗われ、山の麓に建ち並ぶ住宅地にあったものも、海岸だった場所にあったものも、遥か沖合にあったものも、それどころか、どこか他の村や町にあったものも、何もかもが呑み込まれ混ぜ合わされそして出鱈目にぶちまけられたのだ。
一つの区画は10メートル四方に決めている。理由はそんなにない。何も見逃さないように丹念に見て回るとそれで一日終わってしまう、そのくらいのサイズだ。始めの頃は当てもなく探しまわるしかなかった。家を中心に浜辺と高台の麓を何度も往復しながら、目につくものを動かし、物陰を覗き込み、覆いかぶさったものをとりのけた。
家から1キロ近く離れたところで時計を見つけた時には息が止まるかと思った。それは娘がまだ幼稚園に通っていた頃、娘からという名目で誕生日に家人からプレゼントされたものだった。けれどもそのようなやり方ではどうしても見落としが出て来ることにも気づかされた。時計にしたってたまたま転んだ指先に、泥の中の固いものが当たったから見つけたのだ。転ばなかったら見つけられなかった。
そう気づいて、その日からやり方を変えることにした。区画を決めて順番に虱潰しに探す。1メートル角の木枠をこしらえ、それを運び、その日探すエリアに持ち込む。平らな場所には木枠を置き、木枠の中を納得行くまで探す。建物やその残骸が形をとどめているところもできるだけ枠単位で納得行くまで探す。
これを100回繰り返すと1日が終わる。肉体的にもハードだが、精神的にもかなりこたえる。たくさんの人のたくさんの思い出に否応なく触れることになるからだ。食器類にはなぜかはっとさせられる。箸置きを見るとつらくなるのは妻が箸置きを集めていたことを知っているからだろう。ランドセルや教科書のたぐいも胸がつぶれそうになるが、実際には子どもたちはもうとっくに小学校を卒業している。下の息子だってこの春高校に入るはずだった。
そういったものを見つけても何もできない。できるのは、持ち主が無事でありますようにと祈ることだけだ。たまたまこれがここにあることを知らないから、知っていても持って行けなかったから、ここに放置されているのだろうと。そして、もし不幸にも命を落としているのなら、どうか安らかに眠りますように。君のランドセルはおじさんが泥を拭っておいたからね。
家族の元を離れて何年にもなる。正直な話、あの日までは戻るつもりもなかった。けれどもニュースで故郷が失われて行く映像を見て、たまらなくなって戻ってきた。避難所を回り、おびただしい数の遺体を確認し、家族がどこにもいないことを知って町に戻った。自分の家の在り処を探すことさえままならなかった。道も、郵便局も、角の果物屋も、何の手がかりもないのだ。そこが自分の町なのかどうかすら確信を持てなかった。ようやく自分の家の場所を探し当てた時には大声を上げて泣いた。あたりのものを動かし、泥を掘り、その場所には家族がいないことを確認するのに1週間かかった。
残骸を利用して小屋をつくりその場に住み着くことにした。同じようなことをしている人が何人もいて知り合いになり、お互いに助け合って暮すようになった。この数年間、ぼくは山中でひとりサバイバル生活をしていた。だから一人で生き抜くことは何とかできる。掘り返すものの中には家庭園芸用の野菜類の種などもあり、ありがたくいただいて栽培している。そうして遅ればせながら捜索を始めた。こんな生活をいつまでも続けられないことはわかっている。けれどいまぼくにはこうすることしかできない。今日、それを確信した。
Cの11を終えようとした時、一冊のよれよれの冊子が目に入った。どことなく見覚えがあったので手に取ると、それはぼくが卒業した年の高校の生徒会誌だった。これがぼくのものか同級生のものかは分からない。けれどまぎれもなくあの年の生徒会誌だった。水にぬれ、ごわごわになったページをめくり、目次に自分の名前を見つけて思い出した。すっかり忘れていたが、当時ぼくは生徒会誌にふざけたエッセイとも小説ともつかぬものを投稿し、それが掲載されていたのだ。
読むに耐えない文章のおしまいの一節にこうあった。「おれはどうもスポーツでも音楽でもたいしたプレイヤーにはなれそうもない。でもおれはめざす! ベストプレイヤーをめざす! 一文字変えて“祈る人”のプレイヤーだっ!」
当時は気の利いたことを書いたつもりだったんだろうが、なんとも冴えないダジャレに過ぎない。でもそこには、いまのぼくにできることが書かれていた。ぼくは恐ろしく無力だけど、毎日ひと区画をあらためて回り、そこで見つかったもの一つ一つに祈りを捧げることはできる。無事を祈り、平安を祈り、ものごとが少しでもよくなるようにと祈ることができる。どのような形であれ家族と再会するまで、それがぼくが今ここにいる意味だ。
(「生徒会誌」ordered by こあ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
簡単な朝食を終えると家族に声をかけて表に出る。行ってらっしゃいとかすかに聞こえた気がする。歩いて行くと何人か顔見知りの人に会い、おはようございますと挨拶をする。みんな日に焼けて、口を開けると歯が白く、総じてまぶしそうな顔つきをしている。今日はCの11を探そう。Cの11というのはぼくが勝手につけた区画番号で他の人には通用しない。たまに手伝いにきてくれる学生たちは理解してくれる。
Cの11はかつて商店街だった一角だ。明らかに元々この場所にあったとおぼしきものもたくさん見つかるが、もちろんそれだけではない。あの日、この場所は何度も潮に洗われ、山の麓に建ち並ぶ住宅地にあったものも、海岸だった場所にあったものも、遥か沖合にあったものも、それどころか、どこか他の村や町にあったものも、何もかもが呑み込まれ混ぜ合わされそして出鱈目にぶちまけられたのだ。
一つの区画は10メートル四方に決めている。理由はそんなにない。何も見逃さないように丹念に見て回るとそれで一日終わってしまう、そのくらいのサイズだ。始めの頃は当てもなく探しまわるしかなかった。家を中心に浜辺と高台の麓を何度も往復しながら、目につくものを動かし、物陰を覗き込み、覆いかぶさったものをとりのけた。
家から1キロ近く離れたところで時計を見つけた時には息が止まるかと思った。それは娘がまだ幼稚園に通っていた頃、娘からという名目で誕生日に家人からプレゼントされたものだった。けれどもそのようなやり方ではどうしても見落としが出て来ることにも気づかされた。時計にしたってたまたま転んだ指先に、泥の中の固いものが当たったから見つけたのだ。転ばなかったら見つけられなかった。
そう気づいて、その日からやり方を変えることにした。区画を決めて順番に虱潰しに探す。1メートル角の木枠をこしらえ、それを運び、その日探すエリアに持ち込む。平らな場所には木枠を置き、木枠の中を納得行くまで探す。建物やその残骸が形をとどめているところもできるだけ枠単位で納得行くまで探す。
これを100回繰り返すと1日が終わる。肉体的にもハードだが、精神的にもかなりこたえる。たくさんの人のたくさんの思い出に否応なく触れることになるからだ。食器類にはなぜかはっとさせられる。箸置きを見るとつらくなるのは妻が箸置きを集めていたことを知っているからだろう。ランドセルや教科書のたぐいも胸がつぶれそうになるが、実際には子どもたちはもうとっくに小学校を卒業している。下の息子だってこの春高校に入るはずだった。
そういったものを見つけても何もできない。できるのは、持ち主が無事でありますようにと祈ることだけだ。たまたまこれがここにあることを知らないから、知っていても持って行けなかったから、ここに放置されているのだろうと。そして、もし不幸にも命を落としているのなら、どうか安らかに眠りますように。君のランドセルはおじさんが泥を拭っておいたからね。
家族の元を離れて何年にもなる。正直な話、あの日までは戻るつもりもなかった。けれどもニュースで故郷が失われて行く映像を見て、たまらなくなって戻ってきた。避難所を回り、おびただしい数の遺体を確認し、家族がどこにもいないことを知って町に戻った。自分の家の在り処を探すことさえままならなかった。道も、郵便局も、角の果物屋も、何の手がかりもないのだ。そこが自分の町なのかどうかすら確信を持てなかった。ようやく自分の家の場所を探し当てた時には大声を上げて泣いた。あたりのものを動かし、泥を掘り、その場所には家族がいないことを確認するのに1週間かかった。
残骸を利用して小屋をつくりその場に住み着くことにした。同じようなことをしている人が何人もいて知り合いになり、お互いに助け合って暮すようになった。この数年間、ぼくは山中でひとりサバイバル生活をしていた。だから一人で生き抜くことは何とかできる。掘り返すものの中には家庭園芸用の野菜類の種などもあり、ありがたくいただいて栽培している。そうして遅ればせながら捜索を始めた。こんな生活をいつまでも続けられないことはわかっている。けれどいまぼくにはこうすることしかできない。今日、それを確信した。
Cの11を終えようとした時、一冊のよれよれの冊子が目に入った。どことなく見覚えがあったので手に取ると、それはぼくが卒業した年の高校の生徒会誌だった。これがぼくのものか同級生のものかは分からない。けれどまぎれもなくあの年の生徒会誌だった。水にぬれ、ごわごわになったページをめくり、目次に自分の名前を見つけて思い出した。すっかり忘れていたが、当時ぼくは生徒会誌にふざけたエッセイとも小説ともつかぬものを投稿し、それが掲載されていたのだ。
読むに耐えない文章のおしまいの一節にこうあった。「おれはどうもスポーツでも音楽でもたいしたプレイヤーにはなれそうもない。でもおれはめざす! ベストプレイヤーをめざす! 一文字変えて“祈る人”のプレイヤーだっ!」
当時は気の利いたことを書いたつもりだったんだろうが、なんとも冴えないダジャレに過ぎない。でもそこには、いまのぼくにできることが書かれていた。ぼくは恐ろしく無力だけど、毎日ひと区画をあらためて回り、そこで見つかったもの一つ一つに祈りを捧げることはできる。無事を祈り、平安を祈り、ものごとが少しでもよくなるようにと祈ることができる。どのような形であれ家族と再会するまで、それがぼくが今ここにいる意味だ。
(「生徒会誌」ordered by こあ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
市民Pに関する覚え書き ― 2010/12/26 11:23:28
後に「市民P」または「玄人P」と呼ばれることになるボカロプロデューサー、岩渕ハヤテはささやかだが重大な発見をしていた。その話をしよう。
岩渕ハヤテが「シチズン梅田」の名前でニコニコ動画に発表した最初の曲のタイトルは『くろうとはだし』。まさに玄人はだしのクオリティの高さだと、一部の注目を集めた。それも当たり前で、岩渕ハヤテは頼れるスタジオミュージシャンとして、すでに7年間の経歴を持っていた。それだけではない。中学時代からバンド活動を続けてきて、ボカロデビュー以前に書き貯めた曲が300曲に届こうとしていた。仕事が忙しくなり、バンド活動ができないストレスを晴らすため、自作曲の中からこれはという曲をピックアップして、ニコ動に発表しようと思いついたのが「シチズン梅田」の誕生のきっかけだった。
けれども『くろうとはだし』は半年経っても2000人程度にしか視聴されず、さほど人気を獲得したとはいえない。後の人気からすると意外だろうけれど。第2作目『赤い粒胡椒』、第3作『畦は柿色/Eighty』も、「さすが玄人P』という評価を受けたものの、さほど注目を浴びたわけではなかった。ただ、この時点で何人かは、シチズン梅田が昭和の女性アイドル歌手をパロディにしたプロジェクトだということに気づいていた。そしてコメント欄に「あの音痴っぷりも再現できればもっといいのに」と書いた。
これが大きな転機をもたらした。
第4作『チャールズブロンソン』の発表までに半年が費やされた。この時点ではまだ試行錯誤が繰り返されていたが、いささか調子っぱずれのアイドル「シチズン梅田」はささやかな話題となり、1か月以内に10000人以上が視聴するようになった。第5作『那須のタブラ』では、「歌が下手なアイドル」としての完成度が一層上がり「なにこれ」「まじめにチューン汁」「SEIK○ちゃ〜ん!」「ダメポ」などのコメントを集め、3か月かけて10万視聴の殿堂入り。以後、第6作『エロいバラドル』、第7作『ほりたつお』は発表と同時に大絶賛で迎えられ、第8作『破壊ツイート柿ピー』では当時としては最短記録で殿堂入りするまでになっていた。
* * *
交通事故で岩渕ハヤテが亡くなったのは第10作『ゴス色のマイメイド』を発表して、そろそろ次回作が待たれているころだった。ちょうどそのとき、人気絶頂のアイドルグループの新曲が『ゴス色〜』にそっくり(というかあからさまなパクリ)だということが話題になっている最中だったので、その死には裏があるのではないか、事故ではなく事件なのではないかと囁かれたが、結局それは全くの不運な事故に過ぎなかった。
「市民P」ことシチズン梅田の活躍はこれで終わった。シチズン梅田の死を悼む声が盛り上がり、さまざまな話題が重なったおかげで『ゴス色〜』はミリオンで視聴され、カラオケでは一般曲を含めたランキングでトップ10に食い込み、テレビやラジオでも一時期パワープレイされたが、忘れられるのも早かった。
けれどもプロジェクトは続けられねばならない。わたしはそう思う。なぜなら岩渕ハヤテの曲はまだまだあるし、パロディの対象たる元アイドルの曲もまだまだあるからだ。それだけではない。わたしは岩渕ハヤテからヒット曲づくりの極意を聞いてしまったのだ。
「あの音痴っぷりも再現できればいいのに」というコメントをきっかけに訪れた転機によって、岩渕ハヤテは元アイドルの歌声を研究し尽くした。そして、その調子っぱずれは、驚いたことに実は音痴ではなかったことを発見したのだ。それはある法則に乗っ取った歌声だった。そして岩渕ハヤテはその「調子っぱずれ」を再現するためのプロトコルをつくりあげた。
わたしは「CITIZEN」名義で、プロジェクトを再開した。第11作『エジンバラの調度』、第12作『隠密の前園』は「できのわるい梅田のフォロワー」と切り捨てられたが、第13作「地獄のKISS」、第14作『シイナの林檎/SWEET POTATOES』を発表するに及んで、「これは本物だ」「シチズン梅田が生きていた」と話題になった。「市民P」の呼び名が定着したのもこの頃のことだ。
そう。岩渕ハヤテが、わたしのハヤテが発見したことは正しかったのだ。あの元アイドル歌手は、正確に72平均律で歌っていたのであり、決して音痴だったわけではないのだ。72平均律の世界は、一般的な西洋音階に慣れたわたしたちの耳には調子っぱずれに聞こえる。でも、それは単に72平均律の世界を知らないだけのこと、その世界になじめば味わったこともないような複雑な音世界を体験できるのだ。
かつてハヤテは言ってくれた。
「だからあの頃、お前をボーカルに選んだんだよ」わたしたちは学生時代に一緒にバンドをやっていた。「あの頃は知らなかったけど、お前は72平均律の世界の住人だったんだ」
「バンドのみんなに音痴だって言われて、わたしをおろしたくせに」
「おろしてないさ。こうやって一緒に暮らして次に備えてるじゃないか」
今のわたしは歌うことができない。ハヤテが死んで、もう何にも備えていないのだとわかって、声が出せなくなったのだ。けれども「CITIZEN」の名前で岩渕ハヤテの歌を歌わせることはできる。そしてCITIZENの新曲を待っている人がいる。それでいい。それでいいんだと思う。
(「平均律」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
岩渕ハヤテが「シチズン梅田」の名前でニコニコ動画に発表した最初の曲のタイトルは『くろうとはだし』。まさに玄人はだしのクオリティの高さだと、一部の注目を集めた。それも当たり前で、岩渕ハヤテは頼れるスタジオミュージシャンとして、すでに7年間の経歴を持っていた。それだけではない。中学時代からバンド活動を続けてきて、ボカロデビュー以前に書き貯めた曲が300曲に届こうとしていた。仕事が忙しくなり、バンド活動ができないストレスを晴らすため、自作曲の中からこれはという曲をピックアップして、ニコ動に発表しようと思いついたのが「シチズン梅田」の誕生のきっかけだった。
けれども『くろうとはだし』は半年経っても2000人程度にしか視聴されず、さほど人気を獲得したとはいえない。後の人気からすると意外だろうけれど。第2作目『赤い粒胡椒』、第3作『畦は柿色/Eighty』も、「さすが玄人P』という評価を受けたものの、さほど注目を浴びたわけではなかった。ただ、この時点で何人かは、シチズン梅田が昭和の女性アイドル歌手をパロディにしたプロジェクトだということに気づいていた。そしてコメント欄に「あの音痴っぷりも再現できればもっといいのに」と書いた。
これが大きな転機をもたらした。
第4作『チャールズブロンソン』の発表までに半年が費やされた。この時点ではまだ試行錯誤が繰り返されていたが、いささか調子っぱずれのアイドル「シチズン梅田」はささやかな話題となり、1か月以内に10000人以上が視聴するようになった。第5作『那須のタブラ』では、「歌が下手なアイドル」としての完成度が一層上がり「なにこれ」「まじめにチューン汁」「SEIK○ちゃ〜ん!」「ダメポ」などのコメントを集め、3か月かけて10万視聴の殿堂入り。以後、第6作『エロいバラドル』、第7作『ほりたつお』は発表と同時に大絶賛で迎えられ、第8作『破壊ツイート柿ピー』では当時としては最短記録で殿堂入りするまでになっていた。
* * *
交通事故で岩渕ハヤテが亡くなったのは第10作『ゴス色のマイメイド』を発表して、そろそろ次回作が待たれているころだった。ちょうどそのとき、人気絶頂のアイドルグループの新曲が『ゴス色〜』にそっくり(というかあからさまなパクリ)だということが話題になっている最中だったので、その死には裏があるのではないか、事故ではなく事件なのではないかと囁かれたが、結局それは全くの不運な事故に過ぎなかった。
「市民P」ことシチズン梅田の活躍はこれで終わった。シチズン梅田の死を悼む声が盛り上がり、さまざまな話題が重なったおかげで『ゴス色〜』はミリオンで視聴され、カラオケでは一般曲を含めたランキングでトップ10に食い込み、テレビやラジオでも一時期パワープレイされたが、忘れられるのも早かった。
けれどもプロジェクトは続けられねばならない。わたしはそう思う。なぜなら岩渕ハヤテの曲はまだまだあるし、パロディの対象たる元アイドルの曲もまだまだあるからだ。それだけではない。わたしは岩渕ハヤテからヒット曲づくりの極意を聞いてしまったのだ。
「あの音痴っぷりも再現できればいいのに」というコメントをきっかけに訪れた転機によって、岩渕ハヤテは元アイドルの歌声を研究し尽くした。そして、その調子っぱずれは、驚いたことに実は音痴ではなかったことを発見したのだ。それはある法則に乗っ取った歌声だった。そして岩渕ハヤテはその「調子っぱずれ」を再現するためのプロトコルをつくりあげた。
わたしは「CITIZEN」名義で、プロジェクトを再開した。第11作『エジンバラの調度』、第12作『隠密の前園』は「できのわるい梅田のフォロワー」と切り捨てられたが、第13作「地獄のKISS」、第14作『シイナの林檎/SWEET POTATOES』を発表するに及んで、「これは本物だ」「シチズン梅田が生きていた」と話題になった。「市民P」の呼び名が定着したのもこの頃のことだ。
そう。岩渕ハヤテが、わたしのハヤテが発見したことは正しかったのだ。あの元アイドル歌手は、正確に72平均律で歌っていたのであり、決して音痴だったわけではないのだ。72平均律の世界は、一般的な西洋音階に慣れたわたしたちの耳には調子っぱずれに聞こえる。でも、それは単に72平均律の世界を知らないだけのこと、その世界になじめば味わったこともないような複雑な音世界を体験できるのだ。
かつてハヤテは言ってくれた。
「だからあの頃、お前をボーカルに選んだんだよ」わたしたちは学生時代に一緒にバンドをやっていた。「あの頃は知らなかったけど、お前は72平均律の世界の住人だったんだ」
「バンドのみんなに音痴だって言われて、わたしをおろしたくせに」
「おろしてないさ。こうやって一緒に暮らして次に備えてるじゃないか」
今のわたしは歌うことができない。ハヤテが死んで、もう何にも備えていないのだとわかって、声が出せなくなったのだ。けれども「CITIZEN」の名前で岩渕ハヤテの歌を歌わせることはできる。そしてCITIZENの新曲を待っている人がいる。それでいい。それでいいんだと思う。
(「平均律」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 杉 ― 2009/12/31 09:08:41
長生きの秘訣? 年寄りが言った。二、三百年考えさせてくれ。
おれが返事に窮していると、冗談だよと年寄りは続けた。二、三百年も待ってたら、あんたもう生きてないだろう。はあ、まあ。おれは何とも情けない声で返事をした。冗談をいわれるとは思わなかった。もっと、こう、真面目な相手のような気がしていたのだ。
あんたは長生きしたいのかね、と年寄りに聞き返されて、特にそういうわけではないと思った。長生きの秘訣を尋ねたのは、他に気の利いた質問を思いつかなかったからだ。ものすごい年寄りを目の前にしたら誰だってまずはその辺から聞いてしまうのではなかろうか。
では長生きしたくないのか。そう改めて聞かれてまたまたおれは口ごもった。もちろんすぐに死ぬのはいやだけど、とりわけ長生きをしたいとも思わない。だからおれは素直にそう返事をした。ギネスブックに載りたいわけじゃないですね。
ギネスブック? と年寄りが訊く。何だねそれは。
おれはちょっと焦った。ギネスブックが何かを知らない年寄りにギネスブックについて説明するには何から始めればいいのだろう?
ギネスというはビールのメーカーで、というところから語り起こすべきか、だからそもそもは酒を飲みながら話すのにうってつけな話題、すなわちギネスが進む雑学ネタを集めた本として、つまりはパブでのビールの売れ行きを促進するためのセールスプロモーションの一環として始まったらしいとか、いやいや、そんな本の歴史みたいな話はいらないだろう。もっとずばっと本の特徴を捉えて言えばよかろう。
世界記録がいろいろ書いてある本です。おれは説明を試みた。毎年出版されていて、世界一爪が長い人とか、信じられないくらいのっぽの人とか、林檎の皮むきの記録とか、ものすごく太った犬とか、スポーツの記録とか、巨大な建築や、速い乗物や、珍しい生き物とかが載っていて、だいたい思いつく限りありとあらゆる世界記録が書いてあります。人間やら動物やらの世界一の年寄りも載ってますね。
ふうん。年寄りはうなずいた。誰が読むんだね、そんなものを。
誰が? そうですね、そういう変わった記録に興味がある人が。あ。そうそう。ギネスというのはビールのメーカーでね、そもそもは酒を飲みながら話すと面白そうな小ネタ集として始まった本らしいですよ。
そうかそうか。酒を飲みながら話す内容か。それならわかる。
しまった。やっぱりそこから語り起こせば良かったのか。
London...
えっ?
When I was in London.
年寄りは懐かしい時代を思い起こすように目を閉じ、うっとりした表情になって、しかも妙に綺麗なブリティッシュ・イングリッシュで話し始めた。自慢じゃないが学生時代英語では赤点をとり続けたおれはあわててさえぎった。ちょちょちょっと待ってください。おれ英語ダメなんですよ。
年寄りは少しだけ目を開けると、冷ややかな横目でおれを一瞥し、また目をつむるとするすると首を引っ込め、前肢、後肢も引っ込めてしまった。たったいまのいままでおれに話しかけていた年寄りの姿はもうなく、そこには巨大な岩の塊然とした物体があるばかりだ。
あの、とおれは声をかけた。すみません、余計なことを言いました。けれど返事はなく、おれの言葉はむなしくゾウガメ舍の空中に吸い込まれていった。とたんにおれは我に返ったようになった。真夜中の動物園。ゾウガメ舍でゾウガメに向かって独り言を呟く男、それがおれだ。ゾウガメが自分に話しかけてきたと思い込んで長生きの秘訣を尋ねたり、ギネスブックについて説明を試みたりしたが、全部幻聴だったに違いない。おれは頭がどうかしているのだ。女房と子どもと三人、幸せに暮らしているのに、自分が自分でないような、このままではいけないような気がし始めていたのも、少々頭がおかしくなり始めていたせいかもしれない。
途方に暮れておれはしばらくそのまま立ち尽くしていたが、ゾウガメは動こうともしなかった。考えてみれば、ゾウガメは最初からそうやって寝ていただけなのかもしれない。喋っていると思い込んでいたのはおれの幻覚だったのだろう。ゾウガメがロンドンで暮らしていたなんて、どんな夢を見ていたんだ? おれは自分の想像力の突拍子もなさに呆れて少し笑った。
ふと気づくとゾウガメの甲羅を掃除するためのデッキブラシを持ったままだった。甲羅の掃除が途中だったが、もういいだろう。バケツに突っ込んで洗って片付けよう。片付けて、宿直室に戻ろう。動物園はやめるべきかもしれない。これが最後のお勤めだ。目が覚めたよ、アルダブラゾウガメさん。解説ボードに目をやりながらおれは心の裡でつぶやいた。あんたのおかげで自分を見つめ直すきっかけになった。すごいな、アルダブラゾウガメさん。推定220歳。世界最長寿の生き物の可能性あり。セーシェル生まれ。セーシェルってどこだ? 全然わかんないぞ。1793年、フランス海軍に捕獲されパリ動物園へ。1815年、ロンドン動物園に譲渡。1952年、日本へ。上野動物園で人気者に。1973年から1988年まで天王寺動物園、1995年より当園で暮らす。……えっ?
ロンドン動物園?
おれは思わず声に出して言った。だから言ったろう。年寄りは続けた。ロンドンで暮らしていたってな。
(「London」ordered by frodohart-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
おれが返事に窮していると、冗談だよと年寄りは続けた。二、三百年も待ってたら、あんたもう生きてないだろう。はあ、まあ。おれは何とも情けない声で返事をした。冗談をいわれるとは思わなかった。もっと、こう、真面目な相手のような気がしていたのだ。
あんたは長生きしたいのかね、と年寄りに聞き返されて、特にそういうわけではないと思った。長生きの秘訣を尋ねたのは、他に気の利いた質問を思いつかなかったからだ。ものすごい年寄りを目の前にしたら誰だってまずはその辺から聞いてしまうのではなかろうか。
では長生きしたくないのか。そう改めて聞かれてまたまたおれは口ごもった。もちろんすぐに死ぬのはいやだけど、とりわけ長生きをしたいとも思わない。だからおれは素直にそう返事をした。ギネスブックに載りたいわけじゃないですね。
ギネスブック? と年寄りが訊く。何だねそれは。
おれはちょっと焦った。ギネスブックが何かを知らない年寄りにギネスブックについて説明するには何から始めればいいのだろう?
ギネスというはビールのメーカーで、というところから語り起こすべきか、だからそもそもは酒を飲みながら話すのにうってつけな話題、すなわちギネスが進む雑学ネタを集めた本として、つまりはパブでのビールの売れ行きを促進するためのセールスプロモーションの一環として始まったらしいとか、いやいや、そんな本の歴史みたいな話はいらないだろう。もっとずばっと本の特徴を捉えて言えばよかろう。
世界記録がいろいろ書いてある本です。おれは説明を試みた。毎年出版されていて、世界一爪が長い人とか、信じられないくらいのっぽの人とか、林檎の皮むきの記録とか、ものすごく太った犬とか、スポーツの記録とか、巨大な建築や、速い乗物や、珍しい生き物とかが載っていて、だいたい思いつく限りありとあらゆる世界記録が書いてあります。人間やら動物やらの世界一の年寄りも載ってますね。
ふうん。年寄りはうなずいた。誰が読むんだね、そんなものを。
誰が? そうですね、そういう変わった記録に興味がある人が。あ。そうそう。ギネスというのはビールのメーカーでね、そもそもは酒を飲みながら話すと面白そうな小ネタ集として始まった本らしいですよ。
そうかそうか。酒を飲みながら話す内容か。それならわかる。
しまった。やっぱりそこから語り起こせば良かったのか。
London...
えっ?
When I was in London.
年寄りは懐かしい時代を思い起こすように目を閉じ、うっとりした表情になって、しかも妙に綺麗なブリティッシュ・イングリッシュで話し始めた。自慢じゃないが学生時代英語では赤点をとり続けたおれはあわててさえぎった。ちょちょちょっと待ってください。おれ英語ダメなんですよ。
年寄りは少しだけ目を開けると、冷ややかな横目でおれを一瞥し、また目をつむるとするすると首を引っ込め、前肢、後肢も引っ込めてしまった。たったいまのいままでおれに話しかけていた年寄りの姿はもうなく、そこには巨大な岩の塊然とした物体があるばかりだ。
あの、とおれは声をかけた。すみません、余計なことを言いました。けれど返事はなく、おれの言葉はむなしくゾウガメ舍の空中に吸い込まれていった。とたんにおれは我に返ったようになった。真夜中の動物園。ゾウガメ舍でゾウガメに向かって独り言を呟く男、それがおれだ。ゾウガメが自分に話しかけてきたと思い込んで長生きの秘訣を尋ねたり、ギネスブックについて説明を試みたりしたが、全部幻聴だったに違いない。おれは頭がどうかしているのだ。女房と子どもと三人、幸せに暮らしているのに、自分が自分でないような、このままではいけないような気がし始めていたのも、少々頭がおかしくなり始めていたせいかもしれない。
途方に暮れておれはしばらくそのまま立ち尽くしていたが、ゾウガメは動こうともしなかった。考えてみれば、ゾウガメは最初からそうやって寝ていただけなのかもしれない。喋っていると思い込んでいたのはおれの幻覚だったのだろう。ゾウガメがロンドンで暮らしていたなんて、どんな夢を見ていたんだ? おれは自分の想像力の突拍子もなさに呆れて少し笑った。
ふと気づくとゾウガメの甲羅を掃除するためのデッキブラシを持ったままだった。甲羅の掃除が途中だったが、もういいだろう。バケツに突っ込んで洗って片付けよう。片付けて、宿直室に戻ろう。動物園はやめるべきかもしれない。これが最後のお勤めだ。目が覚めたよ、アルダブラゾウガメさん。解説ボードに目をやりながらおれは心の裡でつぶやいた。あんたのおかげで自分を見つめ直すきっかけになった。すごいな、アルダブラゾウガメさん。推定220歳。世界最長寿の生き物の可能性あり。セーシェル生まれ。セーシェルってどこだ? 全然わかんないぞ。1793年、フランス海軍に捕獲されパリ動物園へ。1815年、ロンドン動物園に譲渡。1952年、日本へ。上野動物園で人気者に。1973年から1988年まで天王寺動物園、1995年より当園で暮らす。……えっ?
ロンドン動物園?
おれは思わず声に出して言った。だから言ったろう。年寄りは続けた。ロンドンで暮らしていたってな。
(「London」ordered by frodohart-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 某 ― 2009/12/31 08:21:05
○男の回想
子ども(女1)「かあさん、この木はなんて木?」
母(男1)「樫だよ、なにガシ」
子ども「ナニガシ?」
母「そう、ナニガシ」
子ども「ナニガシっていうの?」
母「うるさいね。そう言ってるだろう」
子ども「じゃあ樅の木じゃないの?」
母「モミノキ? モミノキじゃないねえ」
子ども「じゃあクリスマスツリーにはできないの?」
母「クリスマスツリー? どうしてまたクリスマスツリーになんかするのさ」
子ども「クリスマスの飾り付けをしたいから」
母「どうしてまたクリスマスの飾り付けなんかしたいのさ」
子ども「クリスマスだからだよ」
母「じゃあ何かい? クリスマスだったらみんな飾り付けしなくちゃならないのかい?」
子ども「みんなしてるじゃないか」
母「みんながしてたらあんたは人だって殺すのかい?」
子ども「殺さないよ。それにみんなは人を殺してなんかいないよ」
母「おだまり!」
子ども「……」
母「おしゃべり!」
子ども「え?」
母「だまってないでしゃべりなさい場が持たないから!」
子ども「そんなあ」
母「うちはね」
子ども「え?」
母「うちはクリスマスはやらないからダメだよ」
子ども「どうして? どうしてやらないの?」
母「うちはイスラム教だからね」
子ども「ええ?」
○現在
男1「それがきっかけ」
女1「それがきっかけ?」
男1「そう。そんな風にしておれはムスリムになったんだ」
女1「なーんだ」
男1「なーんだって何だ」
女1「だってそれ、冗談でしょ?」
男1「ちっちっち。おまえはおれのおふくろを知らないからそんなことが言えるんだ」
女1「なに、 どういうこと」
男1「本当に改宗したんだ」
女1「本当に改宗した?」
男1「次の日の朝、おふくろは近所のモスクに行って改宗の手続きをしてきた」
女1「そんな。区役所の窓口じゃないんだから」
男1「甘いな」
女1「甘い?」
男1「イスラムに改宗するのは簡単なんだ」
女1「うわー嘘っぽい」
男1「マジだって。本当はモスクに行かなくったってできる。二人以上のムスリムの前で信仰告白をすればいい」
女1「信仰告白?」
男1「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー、アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー」
女1「ええと、イチ、イチ、なんだっけ」
男1「なにしてんの」
女1「救急車、呼ぼうと思って」
男1「イスラム教の信仰告白だ。『アッラーのほかに神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である』ってね」
女1「でも先輩が入信したわけじゃないんでしょ?」
男1「親がムスリムなら子どもは自動的にムスリムなの」
女1「いやならやめればいいのに」
男1「別にいやじゃなかったからな」
女1「それほんとですか?」
男1「本当だ」
女1「適当に言ってませんか、その、ラーラーとか言うの」
男1「え? 信仰告白を疑ってんの?」
女1「っていうか、全部」
男1「いいんだけどさ。それが、ほら、飲めない理由」
女1「なんかすっきりしないなあ」
男1「おい。人の宗教つかまえてすっきりしないって」
女1「普通に『クルマ乗ってきた』とか言われた方がわかりやすいんですけど」
男1「クルマ乗ってねーし、マジ、ムスリムだし」
女1「ふーん」
男1「あれー。信仰の話をしてこんなテキトーな反応がかえってくるのは日本くらいだぞ」
女1「うん。でも、まあ」
男1「まあいいや。じゃあおまえは?」
女1「え? 何が?」
男1「おまえのクリスマスの思い出」
女1「いいですよ私は」
男1「よかないよ。おまえが子どものころのクリスマスの思い出話しませんかって言ったんだろ?」
女1「言ったけど」
男1「言ったけど、なんだよ」
女1「なんか思ってたのと、違うし」
男1「じゃ、どういうの思ってたんだよ」
女1「えー。そうだなあ」
○女の回想
兄(男1)「バカだなあミホは」
妹(女1)「いるもん」
兄(男1)「いるわけねーじゃん」
妹(女1)「だっているもん」
兄(男1)「俺、去年見たもん」
妹(女1)「何を?」
兄(男1)「おかあさんが夜中にこっそり」
妹(女1)「見てないくせに」
兄(男1)「見たんだって」
妹(女1)「ミホは見てないもん」
兄(男1)「だから俺が見たんだって」
妹(女1)「ミホはお兄ちゃんが寝てたの見たもん」
兄(男1)「そりゃ寝てるときもあったけど」
妹(女1)「ずっと見てたもん!」
兄(男1)「寝ないで見てたのかよ」
妹(女1)「ミホは寝ないで見てたもん!」
兄(男1)「サンタも来なかったろ」
妹(女1)「お兄ちゃんのバカ!」
兄(男1)「おい泣くなよ」
妹(女1)「泣いてないもん!」
兄(男1)「泣くなって」
妹(女1)「サンタさんいるもん!」
兄(男1)「あー」
妹(女1)「なに?」
兄(男1)「あれかもしれない」
妹(女1)「あれって?」
兄(男1)「妖精だったかも」
妹(女1)「ようせい?」
兄(男1)「おれが見たの、妖精だったかも」
妹(女1)「なんで妖精なの?」
兄(男1)「あれだよ、サンタさんの手下」
妹(女1)「サンタさんに手下がいるの?」
兄(男1)「だってほら、一晩で世界中の子どもたちに配るわけだから」
妹(女1)「ふーん」
○現在
男1「どうした」
女1「ん?」
男1「おまえの思い出話は?」
女1「やっぱやめた」
男1「なんで」
女1「なんかフツーなんだもん」
(「妖精」ordered by Buy on dip かりん。-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
子ども(女1)「かあさん、この木はなんて木?」
母(男1)「樫だよ、なにガシ」
子ども「ナニガシ?」
母「そう、ナニガシ」
子ども「ナニガシっていうの?」
母「うるさいね。そう言ってるだろう」
子ども「じゃあ樅の木じゃないの?」
母「モミノキ? モミノキじゃないねえ」
子ども「じゃあクリスマスツリーにはできないの?」
母「クリスマスツリー? どうしてまたクリスマスツリーになんかするのさ」
子ども「クリスマスの飾り付けをしたいから」
母「どうしてまたクリスマスの飾り付けなんかしたいのさ」
子ども「クリスマスだからだよ」
母「じゃあ何かい? クリスマスだったらみんな飾り付けしなくちゃならないのかい?」
子ども「みんなしてるじゃないか」
母「みんながしてたらあんたは人だって殺すのかい?」
子ども「殺さないよ。それにみんなは人を殺してなんかいないよ」
母「おだまり!」
子ども「……」
母「おしゃべり!」
子ども「え?」
母「だまってないでしゃべりなさい場が持たないから!」
子ども「そんなあ」
母「うちはね」
子ども「え?」
母「うちはクリスマスはやらないからダメだよ」
子ども「どうして? どうしてやらないの?」
母「うちはイスラム教だからね」
子ども「ええ?」
○現在
男1「それがきっかけ」
女1「それがきっかけ?」
男1「そう。そんな風にしておれはムスリムになったんだ」
女1「なーんだ」
男1「なーんだって何だ」
女1「だってそれ、冗談でしょ?」
男1「ちっちっち。おまえはおれのおふくろを知らないからそんなことが言えるんだ」
女1「なに、 どういうこと」
男1「本当に改宗したんだ」
女1「本当に改宗した?」
男1「次の日の朝、おふくろは近所のモスクに行って改宗の手続きをしてきた」
女1「そんな。区役所の窓口じゃないんだから」
男1「甘いな」
女1「甘い?」
男1「イスラムに改宗するのは簡単なんだ」
女1「うわー嘘っぽい」
男1「マジだって。本当はモスクに行かなくったってできる。二人以上のムスリムの前で信仰告白をすればいい」
女1「信仰告白?」
男1「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー、アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー」
女1「ええと、イチ、イチ、なんだっけ」
男1「なにしてんの」
女1「救急車、呼ぼうと思って」
男1「イスラム教の信仰告白だ。『アッラーのほかに神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である』ってね」
女1「でも先輩が入信したわけじゃないんでしょ?」
男1「親がムスリムなら子どもは自動的にムスリムなの」
女1「いやならやめればいいのに」
男1「別にいやじゃなかったからな」
女1「それほんとですか?」
男1「本当だ」
女1「適当に言ってませんか、その、ラーラーとか言うの」
男1「え? 信仰告白を疑ってんの?」
女1「っていうか、全部」
男1「いいんだけどさ。それが、ほら、飲めない理由」
女1「なんかすっきりしないなあ」
男1「おい。人の宗教つかまえてすっきりしないって」
女1「普通に『クルマ乗ってきた』とか言われた方がわかりやすいんですけど」
男1「クルマ乗ってねーし、マジ、ムスリムだし」
女1「ふーん」
男1「あれー。信仰の話をしてこんなテキトーな反応がかえってくるのは日本くらいだぞ」
女1「うん。でも、まあ」
男1「まあいいや。じゃあおまえは?」
女1「え? 何が?」
男1「おまえのクリスマスの思い出」
女1「いいですよ私は」
男1「よかないよ。おまえが子どものころのクリスマスの思い出話しませんかって言ったんだろ?」
女1「言ったけど」
男1「言ったけど、なんだよ」
女1「なんか思ってたのと、違うし」
男1「じゃ、どういうの思ってたんだよ」
女1「えー。そうだなあ」
○女の回想
兄(男1)「バカだなあミホは」
妹(女1)「いるもん」
兄(男1)「いるわけねーじゃん」
妹(女1)「だっているもん」
兄(男1)「俺、去年見たもん」
妹(女1)「何を?」
兄(男1)「おかあさんが夜中にこっそり」
妹(女1)「見てないくせに」
兄(男1)「見たんだって」
妹(女1)「ミホは見てないもん」
兄(男1)「だから俺が見たんだって」
妹(女1)「ミホはお兄ちゃんが寝てたの見たもん」
兄(男1)「そりゃ寝てるときもあったけど」
妹(女1)「ずっと見てたもん!」
兄(男1)「寝ないで見てたのかよ」
妹(女1)「ミホは寝ないで見てたもん!」
兄(男1)「サンタも来なかったろ」
妹(女1)「お兄ちゃんのバカ!」
兄(男1)「おい泣くなよ」
妹(女1)「泣いてないもん!」
兄(男1)「泣くなって」
妹(女1)「サンタさんいるもん!」
兄(男1)「あー」
妹(女1)「なに?」
兄(男1)「あれかもしれない」
妹(女1)「あれって?」
兄(男1)「妖精だったかも」
妹(女1)「ようせい?」
兄(男1)「おれが見たの、妖精だったかも」
妹(女1)「なんで妖精なの?」
兄(男1)「あれだよ、サンタさんの手下」
妹(女1)「サンタさんに手下がいるの?」
兄(男1)「だってほら、一晩で世界中の子どもたちに配るわけだから」
妹(女1)「ふーん」
○現在
男1「どうした」
女1「ん?」
男1「おまえの思い出話は?」
女1「やっぱやめた」
男1「なんで」
女1「なんかフツーなんだもん」
(「妖精」ordered by Buy on dip かりん。-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 桜(後篇) ― 2009/12/19 11:48:06
(前篇【17】桜(前篇)×野外公演より続く)
ブザーが鳴って、のっそりと男が入ってきた。仏頂面の男だ。肩幅が広く、ずんぐりとして、鍛え上げた分厚い筋肉の鎧を身にまとい、近づく者を片っ端から傷つけずにはいられない、とでもいうようなコントロールのきかない感じがする。そんな男だったっけ? とおれは奇妙に感じる。誰か、よく似た別人が入ってきたのだろうか?
男は数歩進んだところで足をとめ、ギャラリースペースをじっくり眺め渡した。そして短く鋭く、ただいま、と言った。おれも思わず、おかえり、と返したくなったが、ギャラリー全体も同じように感じたのかどよどよと返事をしそうになった気配があった。その気配を感じてか、男は少し目を細めた。傍らに大振りなデュラレックスのグラスを見つけワインを注ぐと口に含み、ワインの入ったグラスを握ったままのしのしとギャラリーの奥へと足を運んだ。
ギャラリーの一番奥で語り始めたのはしかし、ひとりの少女だった。彼女は山奥の村に暮らしているのだが、村に病人が出たのをきっかけに父とともに薬を求めて旅に出る。伝説ではすべての病気を治療する魔法医が暮らす国が大いなる水の対岸にあるというのだ。
夢見がちな少女は物に触れては、その物にまつわるいつかどこかの不思議な場面を思い描き、語ることができた。村では彼女の語る幻想的な話を聞きたいばかりに、わざわざ危険を冒して古代の遺物を拾いに遠く村を離れてさまよう者もいた。それほどに少女の話は現実離れして、想像力を刺激したからだ。そう、少女の語る話はいずれも突飛なものばかりだった。
虹のように鮮やかな色をしたものどもに取り囲まれた暮らし。火を自在につけたり消したり、遠くの人と顔を合わせることもなく声を出すこともなく意思を通じ合わせる能力。一瞬にして水やお湯や氷を取り出す魔力を誰もが、子どもさえもが持っている世界。あまりにも荒唐無稽でばかばかしいのに、それを聞くうちに誰もがなぜか懐かしいような狂おしいような思いに捕われ、心かき乱される。そしてそれは決していやなものではなかった。
傍らのほっそりとした透明な器物を少女が手に取る。そしてそれが花瓶と呼ばれていたこと、その花瓶がどのようにして生まれ、どのような街角でどのようなものに紛れて売り買いされ、誰に家にやってきて、その家の女主人の悲しいひとりごとをどれくらいたっぷり聞かされたか語る。その女の家は杉よりも荒地岳よりも遥か高い場所にあり、そこへは歩くことなくまっすぐまっすぐ運ばれて行くのだという。
そういう便利なものがここにもあればいいんですがね、と不意に男が現れて言った。夢中になって男の物語に聞き入っていたギャラリーの観客がどよどよと笑う。そこでおれは初めて自分が自分自身のギャラリー兼オフィスにいて、男の話に聴き入っていたことを思い出した。男はこのビルにエレベーターがないことをからかっているのだ。言ってみればギャラリーの主のおれ自身がからかわれたようなものだが、それに反応する余裕はなかった。
おれはくらくらしていた。たったいままで自分がいた遥か文明以前の世界のリアルさに目眩をおぼえていたのだ。むんとするような草いきれ。質素な村での生活。食べ物。少女と、少女の語りを求める村人たち。その中の何人かは少女と親しくなりたい、身体の結びつきを持ちたいと切望する若者たちだった。おれは彼らの顔や名前すら知っているような気がした。
そうこうするうちに少女は村を離れ、父とともに遥かなる冒険に出かける。そしておれは初めてその世界が文明以前の古代ではなく、いまから何百年か何千年か後の世界、何かの災厄があっていまの文明が滅んだ後のアフター・ワールドであることを知った。少女が手にする物とはつまり、たったいま、現在おれたちが使っている道具たちのことだったのだ。
少女(男)はギャラリー内のものを次々に手に取ると、それぞれの謂れのものがたりを話し始める。それはおれたちにとっては極めて身近で等身大のものがたりだが、少女の世界においてはあまりにも現実離れしていて、少女と同行している父親は大笑いしたり、感嘆したりしながら感想をもらす。それは絶妙な文明批評になっていて、それを聞いているおれたちは顔をしかめて笑うことになる。
中盤、少女と父親が国立新美術館の遺跡を訪れるシーンは圧倒的な迫力で、ギャラリー内は静まり返った。徐々に明らかにされる過去のものがたりから、どうやら文明の破局は現在の我々からほど遠からぬほんの先に訪れるらしいことが分かってくるからだ。ジャングルに呑み込まれた国立新美術館の中の展示の日付の年号は最初の3桁が「201」なのだ。2010年よりは先、でも2020年よりは手前のいつか。
父親は猪を狩る途中に負傷し、おそらく破傷風にかかって命を落とす。季節は秋になり、冬になり、広葉樹が葉を落とすとそこにはよりはっきりと文明の遺跡が姿を現し始める。凍えそうになりながら少女は旅を続ける。他の部族との交流の中で、あるいは助けられ、あるいは傷つけられしながら、やがてたどりついたのは海の見える高台だ。
エンディングがどういうシーンだったのか、おれには説明することができない。ただギャラリーを埋め尽くす50人ばかりの観客はようやく訪れた春先のまだ冷たい空気の中、桜吹雪に囲まれて茫然と立ち尽くしている。少女が空に向かってあげる澄んだ高い叫び声に耳を澄ましている。おれはわけもわからず涙を流しながら、ああなるほどこれは野外公演だなと思っている。
(「野外公演」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
ブザーが鳴って、のっそりと男が入ってきた。仏頂面の男だ。肩幅が広く、ずんぐりとして、鍛え上げた分厚い筋肉の鎧を身にまとい、近づく者を片っ端から傷つけずにはいられない、とでもいうようなコントロールのきかない感じがする。そんな男だったっけ? とおれは奇妙に感じる。誰か、よく似た別人が入ってきたのだろうか?
男は数歩進んだところで足をとめ、ギャラリースペースをじっくり眺め渡した。そして短く鋭く、ただいま、と言った。おれも思わず、おかえり、と返したくなったが、ギャラリー全体も同じように感じたのかどよどよと返事をしそうになった気配があった。その気配を感じてか、男は少し目を細めた。傍らに大振りなデュラレックスのグラスを見つけワインを注ぐと口に含み、ワインの入ったグラスを握ったままのしのしとギャラリーの奥へと足を運んだ。
ギャラリーの一番奥で語り始めたのはしかし、ひとりの少女だった。彼女は山奥の村に暮らしているのだが、村に病人が出たのをきっかけに父とともに薬を求めて旅に出る。伝説ではすべての病気を治療する魔法医が暮らす国が大いなる水の対岸にあるというのだ。
夢見がちな少女は物に触れては、その物にまつわるいつかどこかの不思議な場面を思い描き、語ることができた。村では彼女の語る幻想的な話を聞きたいばかりに、わざわざ危険を冒して古代の遺物を拾いに遠く村を離れてさまよう者もいた。それほどに少女の話は現実離れして、想像力を刺激したからだ。そう、少女の語る話はいずれも突飛なものばかりだった。
虹のように鮮やかな色をしたものどもに取り囲まれた暮らし。火を自在につけたり消したり、遠くの人と顔を合わせることもなく声を出すこともなく意思を通じ合わせる能力。一瞬にして水やお湯や氷を取り出す魔力を誰もが、子どもさえもが持っている世界。あまりにも荒唐無稽でばかばかしいのに、それを聞くうちに誰もがなぜか懐かしいような狂おしいような思いに捕われ、心かき乱される。そしてそれは決していやなものではなかった。
傍らのほっそりとした透明な器物を少女が手に取る。そしてそれが花瓶と呼ばれていたこと、その花瓶がどのようにして生まれ、どのような街角でどのようなものに紛れて売り買いされ、誰に家にやってきて、その家の女主人の悲しいひとりごとをどれくらいたっぷり聞かされたか語る。その女の家は杉よりも荒地岳よりも遥か高い場所にあり、そこへは歩くことなくまっすぐまっすぐ運ばれて行くのだという。
そういう便利なものがここにもあればいいんですがね、と不意に男が現れて言った。夢中になって男の物語に聞き入っていたギャラリーの観客がどよどよと笑う。そこでおれは初めて自分が自分自身のギャラリー兼オフィスにいて、男の話に聴き入っていたことを思い出した。男はこのビルにエレベーターがないことをからかっているのだ。言ってみればギャラリーの主のおれ自身がからかわれたようなものだが、それに反応する余裕はなかった。
おれはくらくらしていた。たったいままで自分がいた遥か文明以前の世界のリアルさに目眩をおぼえていたのだ。むんとするような草いきれ。質素な村での生活。食べ物。少女と、少女の語りを求める村人たち。その中の何人かは少女と親しくなりたい、身体の結びつきを持ちたいと切望する若者たちだった。おれは彼らの顔や名前すら知っているような気がした。
そうこうするうちに少女は村を離れ、父とともに遥かなる冒険に出かける。そしておれは初めてその世界が文明以前の古代ではなく、いまから何百年か何千年か後の世界、何かの災厄があっていまの文明が滅んだ後のアフター・ワールドであることを知った。少女が手にする物とはつまり、たったいま、現在おれたちが使っている道具たちのことだったのだ。
少女(男)はギャラリー内のものを次々に手に取ると、それぞれの謂れのものがたりを話し始める。それはおれたちにとっては極めて身近で等身大のものがたりだが、少女の世界においてはあまりにも現実離れしていて、少女と同行している父親は大笑いしたり、感嘆したりしながら感想をもらす。それは絶妙な文明批評になっていて、それを聞いているおれたちは顔をしかめて笑うことになる。
中盤、少女と父親が国立新美術館の遺跡を訪れるシーンは圧倒的な迫力で、ギャラリー内は静まり返った。徐々に明らかにされる過去のものがたりから、どうやら文明の破局は現在の我々からほど遠からぬほんの先に訪れるらしいことが分かってくるからだ。ジャングルに呑み込まれた国立新美術館の中の展示の日付の年号は最初の3桁が「201」なのだ。2010年よりは先、でも2020年よりは手前のいつか。
父親は猪を狩る途中に負傷し、おそらく破傷風にかかって命を落とす。季節は秋になり、冬になり、広葉樹が葉を落とすとそこにはよりはっきりと文明の遺跡が姿を現し始める。凍えそうになりながら少女は旅を続ける。他の部族との交流の中で、あるいは助けられ、あるいは傷つけられしながら、やがてたどりついたのは海の見える高台だ。
エンディングがどういうシーンだったのか、おれには説明することができない。ただギャラリーを埋め尽くす50人ばかりの観客はようやく訪れた春先のまだ冷たい空気の中、桜吹雪に囲まれて茫然と立ち尽くしている。少女が空に向かってあげる澄んだ高い叫び声に耳を澄ましている。おれはわけもわからず涙を流しながら、ああなるほどこれは野外公演だなと思っている。
(「野外公演」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 桜(前篇) ― 2009/10/22 17:39:51
山から神様が降りてきた。桜はその玉座である。
その神は稲の豊作をもたらすサの神で、私たちはサの神を田に導くためにさまざまな催しを行う。桜の木の下で宴を開き、歌や踊りを捧げご機嫌をうかがう。華やかに咲き誇る桜の花は、目には見えない神の印だ。その満開の桜の見事さを褒め讃え、私たちがどれだけサの神を待ちに待っていたかという思いを伝える。
サクラとはサの神の御座(みくら)という意味なのだ。
私たちは満開の桜の下で酒を酌み交わし、サの神の領域に入っていく。そこで捧げる舞はサの神の目を楽しませるためのもので、そこで声に乗せる語りは神の耳を喜ばせるためのものだ。夜ともなると男女はサの神の豊穣の恵みを浴びて交合し子を授かろうとする。あるいはサの神の歓びにあやかろうとする。
このようにして、私たちの新しい年は始まる。
やがてサの神がその御座を離れたら、まず私たちの家に訪れ滞在する。めいめいに歓待しつつ、サの神に見守ってもらいながら私たちは苗代で苗を育てる。苗が育ちサの月が訪れたら、いよいよ田楽だ。サの神がこれから収穫の季節まで留まるにふさわしい場所だということをわかってもらうために、私たちは歌い舞い酒食を捧げる。
だから若い人、どうか忘れないでほしい。サの神が見ているのだということを。
* * *
目醒めた後も夢をはっきりと覚えていて、語りかけていた声もはっきり耳に残っていた。おれはソファから身を起こすと思わず誰かいないか探した。ついいましがた、おれに向かって話しかけていた人物が見つかるような気がしたからだ。探しても誰もいない。ただの夢なのだから。頭で考えればわかりきったことだったが、それでもまだおれの目は夕闇に沈みつつある事務所兼ギャラリーの中を彷徨っていた。
ここにはたくさんの古道具がある。ソファがあり、診察台があり、磨りガラスの窓枠があり、ガラスケースがあり、薬棚があり、無数の額縁がある。取り付け金具やスイッチ類、小さなケース類や灰皿など小物にいたっては自分でもどのくらいあるのかわからないほどある。それらがみな暗くなったギャラリーの、がらんとした空間のあちこちに黒々と身をひそめ、静まり返っている。
そういったものに、独特のたたずまいがあることを、おれは否定しない。骨董市や古道具屋やインターネットのオークションで手に入れたものも多数あるが、中には取り壊された建物からもらってきたり、知人の家の物置や倉庫をあさって譲り受けたりしたものも多い。霊感の強い友人がいろいろ理由を付けて事務所に寄り付かなくなったところを見ると、どうやらこの世ならぬ存在をいろいろ引き連れてきてしまっているらしい。
もっとも、おれは幽霊を見たことはないし、霊感と呼べるほどのものもない。非常に怖がりなので、しょっちゅう視線を感じたり、悪寒を感じたりするが、霊感の強い友人にいわせればみんな気の迷いに過ぎないということになる。実際このギャラリーを始めてかれこれ4、5年になるが、その間、特段これといった怪異現象もなく無事に過ごしている。まあ、怪異現象に限っては無事に過ごしている。
監禁されたり、殺されかけたり、骨折したり、変な組織の構成員にされそうになったり、いろいろあったが、どれも怪異現象ということではない。あくまでもろくでもない連中と関わったために、ろくでもない目に合った、それだけのことだ。桜は神の玉座だ? サの神? 田楽? 何のことだかさっぱりわからない。おれは寝ていたソファから立ち上がると、出入り口の近くのスイッチまで歩き、部屋の明かりをつけた。ドアに鍵をかけていなかったことに気づき、自分の不用心さに舌打ちをした。いままでさんざん危ない目に合ったのだ、もう少し気をつけなければならない。
それから部屋に戻ろうと振り向いて仰天した。誰もいなかったはずのギャラリーに一人の男が立っていたからだ。男は仏頂面をしてこちらを見ていた。おれは混乱しながら男に尋ねた。ずっとそこにいたんですか、と。ええまあ、よく寝ておられたので。すみませんすみません、眠るつもりなんかなかったんですが。それはいいんですがね。そう言うと男は少し声をひそめておれに尋ねた。ここで演劇の公演ができると聞いたんですが。はい、いままでにも何回か使われてますよ。素晴らしい! 男はぴしりと言うと口をつぐみ、ギャラリー内を見渡した。それからおもむろに口を開くと、こう言った。野外公演を考えているんですがね。(続く)
(「野外公演」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
その神は稲の豊作をもたらすサの神で、私たちはサの神を田に導くためにさまざまな催しを行う。桜の木の下で宴を開き、歌や踊りを捧げご機嫌をうかがう。華やかに咲き誇る桜の花は、目には見えない神の印だ。その満開の桜の見事さを褒め讃え、私たちがどれだけサの神を待ちに待っていたかという思いを伝える。
サクラとはサの神の御座(みくら)という意味なのだ。
私たちは満開の桜の下で酒を酌み交わし、サの神の領域に入っていく。そこで捧げる舞はサの神の目を楽しませるためのもので、そこで声に乗せる語りは神の耳を喜ばせるためのものだ。夜ともなると男女はサの神の豊穣の恵みを浴びて交合し子を授かろうとする。あるいはサの神の歓びにあやかろうとする。
このようにして、私たちの新しい年は始まる。
やがてサの神がその御座を離れたら、まず私たちの家に訪れ滞在する。めいめいに歓待しつつ、サの神に見守ってもらいながら私たちは苗代で苗を育てる。苗が育ちサの月が訪れたら、いよいよ田楽だ。サの神がこれから収穫の季節まで留まるにふさわしい場所だということをわかってもらうために、私たちは歌い舞い酒食を捧げる。
だから若い人、どうか忘れないでほしい。サの神が見ているのだということを。
* * *
目醒めた後も夢をはっきりと覚えていて、語りかけていた声もはっきり耳に残っていた。おれはソファから身を起こすと思わず誰かいないか探した。ついいましがた、おれに向かって話しかけていた人物が見つかるような気がしたからだ。探しても誰もいない。ただの夢なのだから。頭で考えればわかりきったことだったが、それでもまだおれの目は夕闇に沈みつつある事務所兼ギャラリーの中を彷徨っていた。
ここにはたくさんの古道具がある。ソファがあり、診察台があり、磨りガラスの窓枠があり、ガラスケースがあり、薬棚があり、無数の額縁がある。取り付け金具やスイッチ類、小さなケース類や灰皿など小物にいたっては自分でもどのくらいあるのかわからないほどある。それらがみな暗くなったギャラリーの、がらんとした空間のあちこちに黒々と身をひそめ、静まり返っている。
そういったものに、独特のたたずまいがあることを、おれは否定しない。骨董市や古道具屋やインターネットのオークションで手に入れたものも多数あるが、中には取り壊された建物からもらってきたり、知人の家の物置や倉庫をあさって譲り受けたりしたものも多い。霊感の強い友人がいろいろ理由を付けて事務所に寄り付かなくなったところを見ると、どうやらこの世ならぬ存在をいろいろ引き連れてきてしまっているらしい。
もっとも、おれは幽霊を見たことはないし、霊感と呼べるほどのものもない。非常に怖がりなので、しょっちゅう視線を感じたり、悪寒を感じたりするが、霊感の強い友人にいわせればみんな気の迷いに過ぎないということになる。実際このギャラリーを始めてかれこれ4、5年になるが、その間、特段これといった怪異現象もなく無事に過ごしている。まあ、怪異現象に限っては無事に過ごしている。
監禁されたり、殺されかけたり、骨折したり、変な組織の構成員にされそうになったり、いろいろあったが、どれも怪異現象ということではない。あくまでもろくでもない連中と関わったために、ろくでもない目に合った、それだけのことだ。桜は神の玉座だ? サの神? 田楽? 何のことだかさっぱりわからない。おれは寝ていたソファから立ち上がると、出入り口の近くのスイッチまで歩き、部屋の明かりをつけた。ドアに鍵をかけていなかったことに気づき、自分の不用心さに舌打ちをした。いままでさんざん危ない目に合ったのだ、もう少し気をつけなければならない。
それから部屋に戻ろうと振り向いて仰天した。誰もいなかったはずのギャラリーに一人の男が立っていたからだ。男は仏頂面をしてこちらを見ていた。おれは混乱しながら男に尋ねた。ずっとそこにいたんですか、と。ええまあ、よく寝ておられたので。すみませんすみません、眠るつもりなんかなかったんですが。それはいいんですがね。そう言うと男は少し声をひそめておれに尋ねた。ここで演劇の公演ができると聞いたんですが。はい、いままでにも何回か使われてますよ。素晴らしい! 男はぴしりと言うと口をつぐみ、ギャラリー内を見渡した。それからおもむろに口を開くと、こう言った。野外公演を考えているんですがね。(続く)
(「野外公演」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 栗 ― 2009/09/23 16:11:48
一匹の栗鼠が、夢中になって木の実を埋めていると上から大きな声が轟いた。
「誰に断った?」
栗鼠はびくっとし、顔を上げた。相手があまりに大きすぎて栗鼠にはそれが何者なのか、最初はわからなかった。それは栗鼠の上に黒々と覆いかぶさり、いい天気のはずの秋空をすっかり隠してしまっていた。
「誰に断った?」
それは同じことをもう一度言った。長く続く雷鳴のような声。低くゴロゴロと響き、大きすぎて割れて聞こえ、あたりの空気をビリビリ震わせる。栗鼠は全身が麻痺して動かなくなってしまったのはその声のせいだと思った。実際にはそれは恐怖のせいだった。あまりにも大きく圧倒的な存在を前にして恐怖で凍りついていたのだ。
世界が回転し始めたのかと思ったら、その大きな者が動き始めたのだった。たくさんの樹々だと思ったものは、それの胴体の模様だった。何本も黒々とした縦線が走っているのでまるで少し離れた場所の林の樹々のように見えたのだ。あたりのふかふかした土を踏みしめ、表面の枯れ葉を少しだけかさかさ言わせるだけで、その巨大な者は驚くほど静かに歩を進めた。栗鼠はびくっ、びくっと痙攣するようなしぐさで身体の向きを変え、相手の動きを追おうとした。
突然本当に雷が落ちた。と思ったら、それが吠えたのだった。知らぬ間に栗鼠は倒れていた。あまりの声の大きさに吹っ飛んだらしい。少しだけ小便をもらしてしまった。栗鼠はふらふらと立ち上がりはしたものの、走って逃げることはおろか一歩踏み出すことさえできなかった。何が何だかわけが分からないまま泣きそうになっていた。おしまいだ。もうおしまいだ。自分でもどういう意味で言っているのかわからないままそう呟いていた。大きな塊がみるみる迫ってきて栗鼠の身体に触れた。食われる。
「怖いのか」
栗鼠は自分が尋ねられているのだと言うことに気づかなかった。なぜなら自分はもう食べられてしまったはずだと思っていたからだ。食べられてしまった者に「怖いのか」と訊ねるやつはいない。けれど次の言葉を聞いて、どうやらまだ食べられたわけではなさそうだということがわかった。
「小便をもらしたな」そう言うと大きな者はぐわらぐわらと割れんばかりの声で大笑いした。そして図体の割に妙にしなやかな動きでその場から遠ざかり始めた。離れた場所から見て、初めて栗鼠はそれが虎だったことを知った。虎は振り向くとまた尋ねた。「そんなに怖いか」
「はい」
「何だって?」
「はい!」
栗鼠は精一杯大きな声で返事した。
「ふん!」
虎が鼻を鳴らすと突風が吹いて栗鼠はまたずっこけた。虎はそんな栗鼠の様子を大して面白くもなさそうに見ながら、その場に腰を下ろし、さらにたたんだ両前脚の上に上体をおさめた。すぐに食べられることはなさそうだとわかり、初めて栗鼠は少し心を落ち着けて虎を眺めることができた。虎はずいぶん年老いていて、毛並みもところどころ薄くなり、もうすっかり艶を失っていた。
「ここはおれの森だ」
静かな調子で虎が言ったが、それでもどろどろと空気や地面を震わせるには十分だった。
「はい」
「だがもうおれの森ではない」
「はい……はい?」
「何をしていた?」
「はい。あっ。わたし、でありますか?」
なんだか変な言い回しになっていることに、栗鼠は自分でも気がついた。
「そうだ」
「栗を、団栗を、埋めておりました」
「どこに」
「えっ?」
「どこに埋めていた」
栗鼠はまわりをきょろきょろ見回して、途方に暮れた。どこに埋めたのか忘れてしまったからだ。たいへんだ、と栗鼠は思った。嘘をついたと思われてしまう。埋めてもいない木の実を埋めていたふりをしたと思われてしまう。栗鼠は焦ってきょろきょろきょろきょろ見回した。虎は肩でふうふう息をしながらそんな栗鼠の様子を眺めていたが、やがて言った。
「どこでもいい」
「はい……えっ?」
「おまえたちはいつもそうだ」
「はい」
「せっせと木の実を埋めるが、埋めた場所のことを覚えていたためしがない」
「えっ?」
言われてみれば栗鼠は自分が埋めた木の実を掘り返したことがなかった。食べられる木の実はいくらでもあったし、いちいち掘り返す必要がなかったからだと思ったが、ではいざ掘り返すとなったら、あんなにたくさん埋めたはずの木の実をどこを掘れば見つかるのかさっぱり見当もつかなかった。虎は前脚の上に頭を載せ、目をつぶり眠っているように見えた。けれど再び口を開くと、梢や地面の枯れ葉を振動させながら言った。
「おかげで木が芽を出す。お前たちが土に埋めたおかげなんだ」
「えっ?」
「おまえたちの森だったんだなあ」
「えっ?」
「だから」虎はほとんど寝言のような調子で言った。「誰にも断らなくていい」
「……はい」
それからしばらく栗鼠は虎を眺めていたが、虎はもう口を開かなかった。目も開かなかった。ほとんど息をしていないようにも見えたが、あまりに大きすぎて栗鼠にはよくわからなかった。よく晴れた青い空が、樹々の隙間からくっきりと見えていた。枯れ色の葉が何枚か落ちてきて、そのうち一枚が虎の上に乗ったが虎は身動き一つしなかった。栗鼠がその場を立ち去った後も虎はいつまでもそこにじっとしていた。その頃にはもう虎は月の沙漠をわたり、風の平原をわたり、花の谷間を踏みしめ、遠く西の空へと旅立っていたのだ。
(「月の沙漠」ordered by たいとう-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
「誰に断った?」
栗鼠はびくっとし、顔を上げた。相手があまりに大きすぎて栗鼠にはそれが何者なのか、最初はわからなかった。それは栗鼠の上に黒々と覆いかぶさり、いい天気のはずの秋空をすっかり隠してしまっていた。
「誰に断った?」
それは同じことをもう一度言った。長く続く雷鳴のような声。低くゴロゴロと響き、大きすぎて割れて聞こえ、あたりの空気をビリビリ震わせる。栗鼠は全身が麻痺して動かなくなってしまったのはその声のせいだと思った。実際にはそれは恐怖のせいだった。あまりにも大きく圧倒的な存在を前にして恐怖で凍りついていたのだ。
世界が回転し始めたのかと思ったら、その大きな者が動き始めたのだった。たくさんの樹々だと思ったものは、それの胴体の模様だった。何本も黒々とした縦線が走っているのでまるで少し離れた場所の林の樹々のように見えたのだ。あたりのふかふかした土を踏みしめ、表面の枯れ葉を少しだけかさかさ言わせるだけで、その巨大な者は驚くほど静かに歩を進めた。栗鼠はびくっ、びくっと痙攣するようなしぐさで身体の向きを変え、相手の動きを追おうとした。
突然本当に雷が落ちた。と思ったら、それが吠えたのだった。知らぬ間に栗鼠は倒れていた。あまりの声の大きさに吹っ飛んだらしい。少しだけ小便をもらしてしまった。栗鼠はふらふらと立ち上がりはしたものの、走って逃げることはおろか一歩踏み出すことさえできなかった。何が何だかわけが分からないまま泣きそうになっていた。おしまいだ。もうおしまいだ。自分でもどういう意味で言っているのかわからないままそう呟いていた。大きな塊がみるみる迫ってきて栗鼠の身体に触れた。食われる。
「怖いのか」
栗鼠は自分が尋ねられているのだと言うことに気づかなかった。なぜなら自分はもう食べられてしまったはずだと思っていたからだ。食べられてしまった者に「怖いのか」と訊ねるやつはいない。けれど次の言葉を聞いて、どうやらまだ食べられたわけではなさそうだということがわかった。
「小便をもらしたな」そう言うと大きな者はぐわらぐわらと割れんばかりの声で大笑いした。そして図体の割に妙にしなやかな動きでその場から遠ざかり始めた。離れた場所から見て、初めて栗鼠はそれが虎だったことを知った。虎は振り向くとまた尋ねた。「そんなに怖いか」
「はい」
「何だって?」
「はい!」
栗鼠は精一杯大きな声で返事した。
「ふん!」
虎が鼻を鳴らすと突風が吹いて栗鼠はまたずっこけた。虎はそんな栗鼠の様子を大して面白くもなさそうに見ながら、その場に腰を下ろし、さらにたたんだ両前脚の上に上体をおさめた。すぐに食べられることはなさそうだとわかり、初めて栗鼠は少し心を落ち着けて虎を眺めることができた。虎はずいぶん年老いていて、毛並みもところどころ薄くなり、もうすっかり艶を失っていた。
「ここはおれの森だ」
静かな調子で虎が言ったが、それでもどろどろと空気や地面を震わせるには十分だった。
「はい」
「だがもうおれの森ではない」
「はい……はい?」
「何をしていた?」
「はい。あっ。わたし、でありますか?」
なんだか変な言い回しになっていることに、栗鼠は自分でも気がついた。
「そうだ」
「栗を、団栗を、埋めておりました」
「どこに」
「えっ?」
「どこに埋めていた」
栗鼠はまわりをきょろきょろ見回して、途方に暮れた。どこに埋めたのか忘れてしまったからだ。たいへんだ、と栗鼠は思った。嘘をついたと思われてしまう。埋めてもいない木の実を埋めていたふりをしたと思われてしまう。栗鼠は焦ってきょろきょろきょろきょろ見回した。虎は肩でふうふう息をしながらそんな栗鼠の様子を眺めていたが、やがて言った。
「どこでもいい」
「はい……えっ?」
「おまえたちはいつもそうだ」
「はい」
「せっせと木の実を埋めるが、埋めた場所のことを覚えていたためしがない」
「えっ?」
言われてみれば栗鼠は自分が埋めた木の実を掘り返したことがなかった。食べられる木の実はいくらでもあったし、いちいち掘り返す必要がなかったからだと思ったが、ではいざ掘り返すとなったら、あんなにたくさん埋めたはずの木の実をどこを掘れば見つかるのかさっぱり見当もつかなかった。虎は前脚の上に頭を載せ、目をつぶり眠っているように見えた。けれど再び口を開くと、梢や地面の枯れ葉を振動させながら言った。
「おかげで木が芽を出す。お前たちが土に埋めたおかげなんだ」
「えっ?」
「おまえたちの森だったんだなあ」
「えっ?」
「だから」虎はほとんど寝言のような調子で言った。「誰にも断らなくていい」
「……はい」
それからしばらく栗鼠は虎を眺めていたが、虎はもう口を開かなかった。目も開かなかった。ほとんど息をしていないようにも見えたが、あまりに大きすぎて栗鼠にはよくわからなかった。よく晴れた青い空が、樹々の隙間からくっきりと見えていた。枯れ色の葉が何枚か落ちてきて、そのうち一枚が虎の上に乗ったが虎は身動き一つしなかった。栗鼠がその場を立ち去った後も虎はいつまでもそこにじっとしていた。その頃にはもう虎は月の沙漠をわたり、風の平原をわたり、花の谷間を踏みしめ、遠く西の空へと旅立っていたのだ。
(「月の沙漠」ordered by たいとう-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 来[5] ― 2009/09/05 08:34:56
部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。
「や。片付きましたか!」
景気のいい声の持ち主は、景気のいい身振り手振りで入ってくるなり、景気のいい表情でそう言った。
「結構、結構」
両手をさささっとすり合わせたかと思うと、ぱんっと景気のいい音を立てて打ち合わせた。ぼくは男の様子をほれぼれしてみていた。本当はぼくから家を巻き上げてしまう大悪党なのだが、この景気のよさは尋常じゃない。ここまでいくと芸の域だ。金を払ってもいい。っていうか、家を明け渡すわけだが。
「それじゃぼくはこれで」
「いやいや」景気のいい声の持ち主は、実に景気のいいタイミングでぼくの言葉を遮ると、驚くべきことを言った。「それじゃまるでわたしが貴兄から家を巻き上げて追い出すみたいなことになってしまう」
ぼくから家を巻き上げて追い出したんじゃなかったのか?
「行く当てはあるのかね?」
「いえ。まだ」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主はまた、さささっと両手をすり合わせた。今度は手を打ち合わせなかったので景気のいいぱんっという音が聞けなくてちょっと残念な気さえした。「どうだね、ひとつ、ここに住み続けるというのは」
あっけにとられて返事もできないでいるぼくを見て、景気のいい声の持ち主は、いまだかつて聞いたこともないほど景気のいい笑い声で、かんらかんらと笑った。かんらかんらという笑い声が実際に存在するということを、ぼくはこの日初めて知った。
「驚くのも無理はない。でも考えてご覧。こんなにさっぱり綺麗になった家で暮らすことを」それから景気のいい声の持ち主は、とびっきり景気のいい笑顔でぼくを覗き込んで、いたずらっぽく言うとウィンクした。「いままでの貴兄の部屋はどんな状態でした?」
「はあ、まあ、ぐちゃぐちゃでした」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主は、景気のいいカウントでうなずきつつ、ひどく感じ入ったような声で続けた。「だからわたしみたいなもんと関わることになってしまった。これは残念なことです。誰だってわたしみたいなもんと関わってロクなことはない。借りた金は一瞬でなくなる。利子は高い。悪い噂を立てられて友人は逃げていく。仕事場にもいたたまれなくなる。恋人を失う人や親に勘当される人もいる。挙げ句にこうして家からも追い立てられてしまう」
ぼくは、簡潔にまとめられた自分の不幸を聞かされて少し悲しくなったが、なにしろ景気のいい調子で語られるので不思議と悲惨な気はしなかった。まさしくこの部屋で過ごした日々は疫病神の取り憑かれた日々だったのだ。
「でもね、わたしだってそれじゃ後味が悪い」景気のいい声の持ち主は、両手をぱっと広げて、まるで一年ぶりに都会から帰ってきた息子を抱きしめようとするイタリア人の田舎のお母さんのような笑みを浮かべた。すこぶる景気がいい。「挽回のチャンスを、みなさんにさしあげているんですよ」
挽回のチャンスというのはつまり、景気のいい声の持ち主のもとで働くなら、このまま家にとどまれる、おまけにどんどんお金もたまる、という景気のいい話だった。一年後にはこんな鰻の寝床みたいなワンルームマンションじゃなく、もっと立派なオートロック付きの、新婚さんにも人気のデザイナーズマンションにだって移れるという景気のいい未来も示された。話を聞いているうちに本当に心が動くほど景気のいい話だったが、ぼくは断った。
「そうかねそうかね」景気のいい声の持ち主は、きらりと目を光らせてこう言った。「もちろん、選ぶのは君の自由だ。わたしも無理強いはしない。ただし出て行くのなら、部屋を改めさせてもらうことになります」
そう言うなり景気のいい声の持ち主は身をひるがえし、景気のいい足さばきで狭い部屋の中を見て回り、部屋の突き当たりのベランダへの窓を開けてエアコンの室外機を指差し確認し、エアコンを作動させ、クローゼットを開け、上の方まで確認し、コンセント一つ一つに何かを差し込んで、コンロに火をつけ……と驚くほど無駄なくてきぱきと部屋のすみずみまでチェックしてまわった。ぼくはドキドキしてその場で倒れてしまいそうだった。気づかれるだろうか? 気づかれるだろうか?
「素晴らしい!」景気のいい声がそう言った。「これ、貴兄が一人で片付けたのかね?」
「はい、そうです」
「なかなかここまできちんとできる人はいないものです」景気のいい声の持ち主は満足そうに言うと、見事なまでの景気のいい笑みを浮かべ続けた。「ただ一点を除いてはね」
「え?」
「電話はどこです」
ぼくは手にしていた鞄をかかえこんだ。
「正直な方だ」景気のいい声の持ち主は短く言った。「あけなさい」
ぼくは鞄をあけた。汚く詰めこまれた衣類の影にぼくが何年も使い続けた黒電話が入っていた。景気のいい声の持ち主は目にもとまらぬ動作で黒電話を抜き取ると下駄箱の上においた。
「思い出がつまっているというわけですかな」
ぼくは黙ってうなずいた。そうだ。ぎっしり思い出が詰まっている。この6年ぶんの。
「でもこれは貴兄のものではない。備品です。持ち出すわけにはいかない」
「はい」
「さあ。これで全て確認できました。片付けご苦労様。貴兄の輝かしい未来を祈るよ」
こうしてぼくは解放され、疫病神にとりつかれた6年間を過ごした部屋を離れることになった。これからは、自己流で身につけた陰陽師の力でどこまで食っていけるか試すことになる。そんなに簡単にうまくいくわけないが、構わない。ぼくの気は晴れている。なぜならぼくに取り憑いた疫病神はあの黒電話に封じ込んだからだ。黒電話が再び電話回線につながった時、疫病神はそのそばにいた者に取り憑く。
ぼくから何もかも奪った景気のいい声の持ち主と、疫病神と、どちらの力の方が強いのかその対決を見てみたくもあるが、それは欲張り過ぎだろう。ワンルームマンションの敷地から出る時に、どこかから「ええ?」という景気の悪い声が聞こえた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
(「電話」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
「や。片付きましたか!」
景気のいい声の持ち主は、景気のいい身振り手振りで入ってくるなり、景気のいい表情でそう言った。
「結構、結構」
両手をさささっとすり合わせたかと思うと、ぱんっと景気のいい音を立てて打ち合わせた。ぼくは男の様子をほれぼれしてみていた。本当はぼくから家を巻き上げてしまう大悪党なのだが、この景気のよさは尋常じゃない。ここまでいくと芸の域だ。金を払ってもいい。っていうか、家を明け渡すわけだが。
「それじゃぼくはこれで」
「いやいや」景気のいい声の持ち主は、実に景気のいいタイミングでぼくの言葉を遮ると、驚くべきことを言った。「それじゃまるでわたしが貴兄から家を巻き上げて追い出すみたいなことになってしまう」
ぼくから家を巻き上げて追い出したんじゃなかったのか?
「行く当てはあるのかね?」
「いえ。まだ」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主はまた、さささっと両手をすり合わせた。今度は手を打ち合わせなかったので景気のいいぱんっという音が聞けなくてちょっと残念な気さえした。「どうだね、ひとつ、ここに住み続けるというのは」
あっけにとられて返事もできないでいるぼくを見て、景気のいい声の持ち主は、いまだかつて聞いたこともないほど景気のいい笑い声で、かんらかんらと笑った。かんらかんらという笑い声が実際に存在するということを、ぼくはこの日初めて知った。
「驚くのも無理はない。でも考えてご覧。こんなにさっぱり綺麗になった家で暮らすことを」それから景気のいい声の持ち主は、とびっきり景気のいい笑顔でぼくを覗き込んで、いたずらっぽく言うとウィンクした。「いままでの貴兄の部屋はどんな状態でした?」
「はあ、まあ、ぐちゃぐちゃでした」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主は、景気のいいカウントでうなずきつつ、ひどく感じ入ったような声で続けた。「だからわたしみたいなもんと関わることになってしまった。これは残念なことです。誰だってわたしみたいなもんと関わってロクなことはない。借りた金は一瞬でなくなる。利子は高い。悪い噂を立てられて友人は逃げていく。仕事場にもいたたまれなくなる。恋人を失う人や親に勘当される人もいる。挙げ句にこうして家からも追い立てられてしまう」
ぼくは、簡潔にまとめられた自分の不幸を聞かされて少し悲しくなったが、なにしろ景気のいい調子で語られるので不思議と悲惨な気はしなかった。まさしくこの部屋で過ごした日々は疫病神の取り憑かれた日々だったのだ。
「でもね、わたしだってそれじゃ後味が悪い」景気のいい声の持ち主は、両手をぱっと広げて、まるで一年ぶりに都会から帰ってきた息子を抱きしめようとするイタリア人の田舎のお母さんのような笑みを浮かべた。すこぶる景気がいい。「挽回のチャンスを、みなさんにさしあげているんですよ」
挽回のチャンスというのはつまり、景気のいい声の持ち主のもとで働くなら、このまま家にとどまれる、おまけにどんどんお金もたまる、という景気のいい話だった。一年後にはこんな鰻の寝床みたいなワンルームマンションじゃなく、もっと立派なオートロック付きの、新婚さんにも人気のデザイナーズマンションにだって移れるという景気のいい未来も示された。話を聞いているうちに本当に心が動くほど景気のいい話だったが、ぼくは断った。
「そうかねそうかね」景気のいい声の持ち主は、きらりと目を光らせてこう言った。「もちろん、選ぶのは君の自由だ。わたしも無理強いはしない。ただし出て行くのなら、部屋を改めさせてもらうことになります」
そう言うなり景気のいい声の持ち主は身をひるがえし、景気のいい足さばきで狭い部屋の中を見て回り、部屋の突き当たりのベランダへの窓を開けてエアコンの室外機を指差し確認し、エアコンを作動させ、クローゼットを開け、上の方まで確認し、コンセント一つ一つに何かを差し込んで、コンロに火をつけ……と驚くほど無駄なくてきぱきと部屋のすみずみまでチェックしてまわった。ぼくはドキドキしてその場で倒れてしまいそうだった。気づかれるだろうか? 気づかれるだろうか?
「素晴らしい!」景気のいい声がそう言った。「これ、貴兄が一人で片付けたのかね?」
「はい、そうです」
「なかなかここまできちんとできる人はいないものです」景気のいい声の持ち主は満足そうに言うと、見事なまでの景気のいい笑みを浮かべ続けた。「ただ一点を除いてはね」
「え?」
「電話はどこです」
ぼくは手にしていた鞄をかかえこんだ。
「正直な方だ」景気のいい声の持ち主は短く言った。「あけなさい」
ぼくは鞄をあけた。汚く詰めこまれた衣類の影にぼくが何年も使い続けた黒電話が入っていた。景気のいい声の持ち主は目にもとまらぬ動作で黒電話を抜き取ると下駄箱の上においた。
「思い出がつまっているというわけですかな」
ぼくは黙ってうなずいた。そうだ。ぎっしり思い出が詰まっている。この6年ぶんの。
「でもこれは貴兄のものではない。備品です。持ち出すわけにはいかない」
「はい」
「さあ。これで全て確認できました。片付けご苦労様。貴兄の輝かしい未来を祈るよ」
こうしてぼくは解放され、疫病神にとりつかれた6年間を過ごした部屋を離れることになった。これからは、自己流で身につけた陰陽師の力でどこまで食っていけるか試すことになる。そんなに簡単にうまくいくわけないが、構わない。ぼくの気は晴れている。なぜならぼくに取り憑いた疫病神はあの黒電話に封じ込んだからだ。黒電話が再び電話回線につながった時、疫病神はそのそばにいた者に取り憑く。
ぼくから何もかも奪った景気のいい声の持ち主と、疫病神と、どちらの力の方が強いのかその対決を見てみたくもあるが、それは欲張り過ぎだろう。ワンルームマンションの敷地から出る時に、どこかから「ええ?」という景気の悪い声が聞こえた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
(「電話」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 柳 ― 2009/08/30 18:45:38
ステップなど踏めなくとも、おまえが風のダンス・パートナーだ。
一本の柳の木を前にして発したこの言葉が風博士の辞世の言葉だという説もあるが、それはさすがに出来過ぎだろう、とわたしは思う。だいたい臨終の際に目の前に柳の木があるという状況がよく分からない。のたれ死にをしたということだろうか。確かにのたれ死にしそうな人ではあるけれど、だったらこんなキザなことを言っている場合ではないはずだ。
それにわたしはあの人が柳の木の前で死んだわけではないことを知っている。もし本当に柳の木に向かってそんなことを言ったのなら、それはもっと別な場所、別な時間のできごとだ。だからたぶん、いや間違いなく、本当の最期の言葉はもっとろくでもないものだったはずだ。「ケチャップ買い忘れた」とか「冷えるとしょんべんが近くていけない」とか「博士の博って、右上に点がいるんだっけ?」とか、そういうの。そういうのがあの人には合っている。
世の中に伝えられている「風博士最後の戦い」の後、風博士は風博士を辞めてうちに帰ってきた。何年も何年もろくに連絡も寄越さずにあっちこっちほっつき歩いて、たまにハガキを送ってくると書いてあることは意味不明。島根県で島をうごかしたとか、福島県のハゲ山を苔でおおったとか、長崎は今日も雨だったとか、どこまで本気でどこから冗談なのかさっぱりわけがわからない。
子どもたちにはもうお父さんはいないものと思わせよう。何度もそう思った。なのにそういう時に限ってハガキが届き、子どもたちは必ずハガキを見つけてしまう。仕方なくわたしは笑顔をつくって、ほらおとうさんがんばってるみたいよ、今度は島根県で島を動かしたんだって。島根県ってどこか地図帳で見てみようね、などと明るい声を出してみせる。あまりにもバカバカしくて子どもたちが寝た後に身体の芯が抜けてしまったような疲れを感じた。
どこで何をして稼ぐのかある日いきなりとんでもない金額のお金が銀行に振り込まれていたりするのも、感謝しないわけではないが、とても疲れた。わたしは何を頼ればいいかわからず、こつこつと働いてちょっとずつ入るお金を工面して生活しているのに、何の説明もなく法外なお金が口座にはいっていたりすると、そういう苦労をばかにされたように感じてしまうのだ。
あの人が風博士と名乗って、あちこちで何やら神話じみた活動をしていると知ったのは、何年もたってからのことだった。最初に見たのはテレビ番組の改編期だった。なんとかスペシャルとかいう番組の中で、全国各地のローカルニュースに登場した奇人変人を紹介するコーナーがあって、そこであの人が出てきたのだ。びっくりした。
「岩手県のとある小さな村で、リゾート開発とともにヒートアイランド現象が起こってしまったのを、一人の男が解決する! その名も風博士!」というナレーションを耳にしながら、わたしは自分が悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。やがて子どもたちがおとうさんだおとうさんだと騒ぎはじめ、わたしはすごいねえ、すごいねえと言うしかなかった。本当は腹が立って腹が立って仕方なくて、すぐにもでテレビを消したかったのだが、子どもたちのために見続けるしかなかった。やがてそのうち、番組改編期ごとにあの人を見ることになった。あの風博士が今度は静岡に! 風博士徳島にあらわる! 風博士、九州初上陸! 風博士とは何者?
「最後の戦い」を終えて何を思ったのか、あの人は帰ってきた。帰ってきたあの人はテレビで見ていたような風博士なんかでは全然なく、わたしが一緒に暮らしはじめた頃の動物園の飼育係の気のいい青年がそのまま年をとったようにしか見えなかった。おかえり、とわたしは言って、ちょっと遅くなっちまって、といいわけがましくあの人は答えた。初めて出会ったとき、照れくさそうにもじもじしながら踊りませんかと、わたしをダンスに誘った頃から何も変わっていないように見えた。
子どもたちはすっかり大きくなって、もう独立してしまっていたけれど、おとうさんが帰ってきたと聞いて二人ともすぐに会いにきてくれた。うらんだってよさそうなものなのに、どうしたわけか二人ともとても嬉しそうにおとうさんおとうさんとなついているので、わたしは一人でその理不尽さを我慢していた。ああそうだ、とあの人は言って、わたしたちに土産を渡してくれた。
子どもたちには南米で手に入れた縦笛と、中央アジアの打楽器。わたしにはハワイで手に入れたと言う何の変哲もないウクレレ。そしてもう一つウクレレを取り出してお揃いだと笑った。そして、みんな、風の仕事をした時に土地の人がくれたものだと言った。風の仕事? わたしたちはあいまいに笑ってうなずくしかなかった。
わたしは手に取らなかったけれど、あの人はウクレレを毎日熱心に練習していた。本当はもっと腹を立てて、いろいろ言いたかったはずなのに、気がついたらあの人はわたしの生活の中にすんなり入り込んでいて、ずーっと一度も家から離れたことなどないみたいに振る舞っていた。わたしもだんだんそんな気がしてきていた。
でも、家に戻ってきて半年ももたずにあの人は死んでしまった。本当はとても重い病気にかかっていたのだが、そんなことはおくびにも出さずに病院に通いもしなかった。毎日普通に生活して、普通に食事をして、庭先で楽譜を前に広げてポロンポロンとウクレレを練習し、そしてある朝、ベッドから起きてこなかった。
あの人のお葬式にはいろいろ奇妙な人がやってきて、荒唐無稽な思い出話をしていった。風博士が死んだとき、世界中の柳が嘆き悲しみむせび泣いたという話を聞かせてくれたのも、そんな中のひとりだった。柳の眷属は、風博士によって風のダンス・パートナーに任じられたことが嬉しかったのだという。
今日、片付けをしていたら一枚の楽譜が見つかった。それは、踊りませんかと照れくさそうにあの人がわたしを誘った時、ダンスホールに流れていた曲の譜面だった。いまなら柳たちの気持がわかる。柳が風のダンス・パートナーであるように、この何十年間か、わたしがあの人のダンス・パートナーだったのだから。
(「ウクレレ」ordered by sachiko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
一本の柳の木を前にして発したこの言葉が風博士の辞世の言葉だという説もあるが、それはさすがに出来過ぎだろう、とわたしは思う。だいたい臨終の際に目の前に柳の木があるという状況がよく分からない。のたれ死にをしたということだろうか。確かにのたれ死にしそうな人ではあるけれど、だったらこんなキザなことを言っている場合ではないはずだ。
それにわたしはあの人が柳の木の前で死んだわけではないことを知っている。もし本当に柳の木に向かってそんなことを言ったのなら、それはもっと別な場所、別な時間のできごとだ。だからたぶん、いや間違いなく、本当の最期の言葉はもっとろくでもないものだったはずだ。「ケチャップ買い忘れた」とか「冷えるとしょんべんが近くていけない」とか「博士の博って、右上に点がいるんだっけ?」とか、そういうの。そういうのがあの人には合っている。
世の中に伝えられている「風博士最後の戦い」の後、風博士は風博士を辞めてうちに帰ってきた。何年も何年もろくに連絡も寄越さずにあっちこっちほっつき歩いて、たまにハガキを送ってくると書いてあることは意味不明。島根県で島をうごかしたとか、福島県のハゲ山を苔でおおったとか、長崎は今日も雨だったとか、どこまで本気でどこから冗談なのかさっぱりわけがわからない。
子どもたちにはもうお父さんはいないものと思わせよう。何度もそう思った。なのにそういう時に限ってハガキが届き、子どもたちは必ずハガキを見つけてしまう。仕方なくわたしは笑顔をつくって、ほらおとうさんがんばってるみたいよ、今度は島根県で島を動かしたんだって。島根県ってどこか地図帳で見てみようね、などと明るい声を出してみせる。あまりにもバカバカしくて子どもたちが寝た後に身体の芯が抜けてしまったような疲れを感じた。
どこで何をして稼ぐのかある日いきなりとんでもない金額のお金が銀行に振り込まれていたりするのも、感謝しないわけではないが、とても疲れた。わたしは何を頼ればいいかわからず、こつこつと働いてちょっとずつ入るお金を工面して生活しているのに、何の説明もなく法外なお金が口座にはいっていたりすると、そういう苦労をばかにされたように感じてしまうのだ。
あの人が風博士と名乗って、あちこちで何やら神話じみた活動をしていると知ったのは、何年もたってからのことだった。最初に見たのはテレビ番組の改編期だった。なんとかスペシャルとかいう番組の中で、全国各地のローカルニュースに登場した奇人変人を紹介するコーナーがあって、そこであの人が出てきたのだ。びっくりした。
「岩手県のとある小さな村で、リゾート開発とともにヒートアイランド現象が起こってしまったのを、一人の男が解決する! その名も風博士!」というナレーションを耳にしながら、わたしは自分が悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。やがて子どもたちがおとうさんだおとうさんだと騒ぎはじめ、わたしはすごいねえ、すごいねえと言うしかなかった。本当は腹が立って腹が立って仕方なくて、すぐにもでテレビを消したかったのだが、子どもたちのために見続けるしかなかった。やがてそのうち、番組改編期ごとにあの人を見ることになった。あの風博士が今度は静岡に! 風博士徳島にあらわる! 風博士、九州初上陸! 風博士とは何者?
「最後の戦い」を終えて何を思ったのか、あの人は帰ってきた。帰ってきたあの人はテレビで見ていたような風博士なんかでは全然なく、わたしが一緒に暮らしはじめた頃の動物園の飼育係の気のいい青年がそのまま年をとったようにしか見えなかった。おかえり、とわたしは言って、ちょっと遅くなっちまって、といいわけがましくあの人は答えた。初めて出会ったとき、照れくさそうにもじもじしながら踊りませんかと、わたしをダンスに誘った頃から何も変わっていないように見えた。
子どもたちはすっかり大きくなって、もう独立してしまっていたけれど、おとうさんが帰ってきたと聞いて二人ともすぐに会いにきてくれた。うらんだってよさそうなものなのに、どうしたわけか二人ともとても嬉しそうにおとうさんおとうさんとなついているので、わたしは一人でその理不尽さを我慢していた。ああそうだ、とあの人は言って、わたしたちに土産を渡してくれた。
子どもたちには南米で手に入れた縦笛と、中央アジアの打楽器。わたしにはハワイで手に入れたと言う何の変哲もないウクレレ。そしてもう一つウクレレを取り出してお揃いだと笑った。そして、みんな、風の仕事をした時に土地の人がくれたものだと言った。風の仕事? わたしたちはあいまいに笑ってうなずくしかなかった。
わたしは手に取らなかったけれど、あの人はウクレレを毎日熱心に練習していた。本当はもっと腹を立てて、いろいろ言いたかったはずなのに、気がついたらあの人はわたしの生活の中にすんなり入り込んでいて、ずーっと一度も家から離れたことなどないみたいに振る舞っていた。わたしもだんだんそんな気がしてきていた。
でも、家に戻ってきて半年ももたずにあの人は死んでしまった。本当はとても重い病気にかかっていたのだが、そんなことはおくびにも出さずに病院に通いもしなかった。毎日普通に生活して、普通に食事をして、庭先で楽譜を前に広げてポロンポロンとウクレレを練習し、そしてある朝、ベッドから起きてこなかった。
あの人のお葬式にはいろいろ奇妙な人がやってきて、荒唐無稽な思い出話をしていった。風博士が死んだとき、世界中の柳が嘆き悲しみむせび泣いたという話を聞かせてくれたのも、そんな中のひとりだった。柳の眷属は、風博士によって風のダンス・パートナーに任じられたことが嬉しかったのだという。
今日、片付けをしていたら一枚の楽譜が見つかった。それは、踊りませんかと照れくさそうにあの人がわたしを誘った時、ダンスホールに流れていた曲の譜面だった。いまなら柳たちの気持がわかる。柳が風のダンス・パートナーであるように、この何十年間か、わたしがあの人のダンス・パートナーだったのだから。
(「ウクレレ」ordered by sachiko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
◇ 来[4] ― 2009/08/22 17:53:53
部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。しばらく耳を澄ませていたが、声はそのまま通り過ぎていってしまった。声がすっかり遠ざかるとと後はしんとしてもう何も聞こえてこない。おれはそのまましばらくじっとしていたが、もう誰も来ないようなので窓のそばに寄ってそっと外の様子をうかがった。家の前にも森の中にも人の気配はなかった。おれはほっと息をついて窓辺に置いた椅子に腰をおろした。
目の前の低いテーブルには、さっき片付けの最中に見つけたお茶の葉がのっている。イワノフがくれたお茶だ。遊びに行くといつもイワノフはこのお茶を入れてくれた。故郷で飲んでいた飲み物に似ているのだと奴は言っていたが、おれにはこのあたりの村人が飲むものとどう違うのかよくわからない。おれの国ではお茶を飲む習慣などなかったからだ。でも奴の小屋に通ううちイワノフのいれたお茶には慣れた。おいしいと思うようになった。
思えばずいぶんまめな男だった。お茶を入れ、料理をつくり、山の中で拾って来た木の実を使って菓子を焼いたりもしていた。おしゃべりな男で、料理一つひとつについて、故郷の思い出話を聞かせてくれる。これは自分の方が女房より上手に作れる。こっちのパイはもっといい肉があれば良かったんだが。女房の作る菓子は絶品で、子どもたちはおおはしゃぎだった。遠い目をして子どもの話を始めるととまらなかった。
そして二言目には言ったものだ。みんなと仲良くしたいんだ、ゲオルク。食べ物は基本だろう? おいしいものを一緒に食べれば人と人は仲良くなれる。そんなものかな、とおれは思ったが、事実おれがうまいお茶やうまい料理を目当てにイワノフのところに通っていたのだから、当たっているのかもしれない。そう思った。
イワノフは村人に宛てて手紙をしたため、招待状を送り、小屋をきれいに掃除して、料理やらお茶やらおみやげやらを用意した。あの臆病な原住民どもが来るもんかとおれは言ったが、何人かの村人がやってきた。森の中の道を案内状の通りにたどって来て、イワノフの小屋の前に現れた。小屋の前に置かれたテーブルには、土産の包みと菓子ののった皿があり、これをつまんでお待ちくださいと書いてあった。村人たちは恐る恐るそれを手に取り、ひとりが口に運んだ。それを見てイワノフは満面の笑みを浮かべて小屋から出てきたんだ。
結果はさんざんだった。村人たちはイワノフが近づくと恐怖で逃げ惑い、持ち帰った土産も結局食べられることはなかった。イワノフの作った食べ物を投げ捨て踏みにじり、イワノフが乾かないように丁寧に包んだお茶の葉を燃え盛る火の中に投げ込んだ。おれはその全てを見てしまった。イワノフもたぶん見ていたと思う。おれは腹が立った。煮えくり返るくらい腹が立ったので、原住民の村を襲撃してやろうかと思った。あいつらはイワノフのことを赤い悪魔と呼んでいたのだ。
ところが翌日おれが小屋をたずねるとイワノフは気の弱そうな微笑みを浮かべて、何がいけなかったんだろうね?とおれに尋ねた。正直おれは、こいつ阿呆かと思った。でも考え直した。おれは一人でも生きて行ける。たまにイワノフと会っているだけでも十分だ。でもこいつはもっとたくさんの人間とつきあっていないとやっていけないんだ。料理が上手で、おしゃべりが大好きで、なにより人間が大好きだったんだ。
おれは提案した。おれが村に行って暴れるから、おまえはおれをぶん殴って追い払え。あいつらはお前のことを赤い悪魔、おれのことを青い悪魔と呼んでいる。青い悪魔は悪者で、赤い悪魔は村人の味方だと思わせればいい。なに、おれはあんなやつらと仲良くする気なんかこれっぽっちもないから安心しろ。
計画は大成功だった。村人はすぐにイワノフと仲良くなった。計画外だったのはイワノフは思っていたより力が強く、おれはしばらく寝込んでしまったことだが、それでも物事が思った通りに進んで大満足だった。でもやがて気がついた。このままおれとイワノフが今まで通り付き合っていたら、村人は疑い始めるに違いない。そこでおれは怪我が治るとすぐに、痛い腰をさすりながら棲み家を引き払った。山を越え、谷を越え、はるか遠くを目指し、ここに来た。
悪い噂は早いもので、方々でおれは恐ろしい青い悪魔扱いされ、何度も山狩りに合いそうになった。だから場所を変え、気配を隠し、用心して山の奥深くを選んで棲んだ。ここを見つけるのに冬を越し、一年近く立った。いまはこうして横穴を泥で塗り固め、外からはただの崖にしか見えないような場所に住んでいる。村人に気づかれさえしなければいいのだ。野生の豚を狩り、鹿をつかまえ、野草と一緒にぐつぐつ煮込めばそれでいい。たまにはイワノフの料理が恋しくなるが、おれはもともと料理の味なんか気にしない。
でもこうしてイワノフのお茶の葉が見つかったのは素直に嬉しい。おれは外に誰もいないのを確かめて、火を起こし、湯を沸かした。そうしてイワノフがやっていたように、お茶の葉を湯に放り込み、しばらく時間を置いてから器にあけて飲んでみた。味はひどく薄かったが、あのころ飲んだのと同じような味がした。お茶の葉の包みから紙がのぞいていたので手に取ると、ゲオルク、時間を置くと味が落ちるので早く飲んでくれ。賞味期限は1カ月以内だ、と書いてあった。まめな男だ。そう思ったら急にイワノフに会いたくなり、おれは大声を上げて泣き出していた。
(「期限」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
目の前の低いテーブルには、さっき片付けの最中に見つけたお茶の葉がのっている。イワノフがくれたお茶だ。遊びに行くといつもイワノフはこのお茶を入れてくれた。故郷で飲んでいた飲み物に似ているのだと奴は言っていたが、おれにはこのあたりの村人が飲むものとどう違うのかよくわからない。おれの国ではお茶を飲む習慣などなかったからだ。でも奴の小屋に通ううちイワノフのいれたお茶には慣れた。おいしいと思うようになった。
思えばずいぶんまめな男だった。お茶を入れ、料理をつくり、山の中で拾って来た木の実を使って菓子を焼いたりもしていた。おしゃべりな男で、料理一つひとつについて、故郷の思い出話を聞かせてくれる。これは自分の方が女房より上手に作れる。こっちのパイはもっといい肉があれば良かったんだが。女房の作る菓子は絶品で、子どもたちはおおはしゃぎだった。遠い目をして子どもの話を始めるととまらなかった。
そして二言目には言ったものだ。みんなと仲良くしたいんだ、ゲオルク。食べ物は基本だろう? おいしいものを一緒に食べれば人と人は仲良くなれる。そんなものかな、とおれは思ったが、事実おれがうまいお茶やうまい料理を目当てにイワノフのところに通っていたのだから、当たっているのかもしれない。そう思った。
イワノフは村人に宛てて手紙をしたため、招待状を送り、小屋をきれいに掃除して、料理やらお茶やらおみやげやらを用意した。あの臆病な原住民どもが来るもんかとおれは言ったが、何人かの村人がやってきた。森の中の道を案内状の通りにたどって来て、イワノフの小屋の前に現れた。小屋の前に置かれたテーブルには、土産の包みと菓子ののった皿があり、これをつまんでお待ちくださいと書いてあった。村人たちは恐る恐るそれを手に取り、ひとりが口に運んだ。それを見てイワノフは満面の笑みを浮かべて小屋から出てきたんだ。
結果はさんざんだった。村人たちはイワノフが近づくと恐怖で逃げ惑い、持ち帰った土産も結局食べられることはなかった。イワノフの作った食べ物を投げ捨て踏みにじり、イワノフが乾かないように丁寧に包んだお茶の葉を燃え盛る火の中に投げ込んだ。おれはその全てを見てしまった。イワノフもたぶん見ていたと思う。おれは腹が立った。煮えくり返るくらい腹が立ったので、原住民の村を襲撃してやろうかと思った。あいつらはイワノフのことを赤い悪魔と呼んでいたのだ。
ところが翌日おれが小屋をたずねるとイワノフは気の弱そうな微笑みを浮かべて、何がいけなかったんだろうね?とおれに尋ねた。正直おれは、こいつ阿呆かと思った。でも考え直した。おれは一人でも生きて行ける。たまにイワノフと会っているだけでも十分だ。でもこいつはもっとたくさんの人間とつきあっていないとやっていけないんだ。料理が上手で、おしゃべりが大好きで、なにより人間が大好きだったんだ。
おれは提案した。おれが村に行って暴れるから、おまえはおれをぶん殴って追い払え。あいつらはお前のことを赤い悪魔、おれのことを青い悪魔と呼んでいる。青い悪魔は悪者で、赤い悪魔は村人の味方だと思わせればいい。なに、おれはあんなやつらと仲良くする気なんかこれっぽっちもないから安心しろ。
計画は大成功だった。村人はすぐにイワノフと仲良くなった。計画外だったのはイワノフは思っていたより力が強く、おれはしばらく寝込んでしまったことだが、それでも物事が思った通りに進んで大満足だった。でもやがて気がついた。このままおれとイワノフが今まで通り付き合っていたら、村人は疑い始めるに違いない。そこでおれは怪我が治るとすぐに、痛い腰をさすりながら棲み家を引き払った。山を越え、谷を越え、はるか遠くを目指し、ここに来た。
悪い噂は早いもので、方々でおれは恐ろしい青い悪魔扱いされ、何度も山狩りに合いそうになった。だから場所を変え、気配を隠し、用心して山の奥深くを選んで棲んだ。ここを見つけるのに冬を越し、一年近く立った。いまはこうして横穴を泥で塗り固め、外からはただの崖にしか見えないような場所に住んでいる。村人に気づかれさえしなければいいのだ。野生の豚を狩り、鹿をつかまえ、野草と一緒にぐつぐつ煮込めばそれでいい。たまにはイワノフの料理が恋しくなるが、おれはもともと料理の味なんか気にしない。
でもこうしてイワノフのお茶の葉が見つかったのは素直に嬉しい。おれは外に誰もいないのを確かめて、火を起こし、湯を沸かした。そうしてイワノフがやっていたように、お茶の葉を湯に放り込み、しばらく時間を置いてから器にあけて飲んでみた。味はひどく薄かったが、あのころ飲んだのと同じような味がした。お茶の葉の包みから紙がのぞいていたので手に取ると、ゲオルク、時間を置くと味が落ちるので早く飲んでくれ。賞味期限は1カ月以内だ、と書いてあった。まめな男だ。そう思ったら急にイワノフに会いたくなり、おれは大声を上げて泣き出していた。
(「期限」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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