◇ 来[5] ― 2009/09/05 08:34:56
部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。
「や。片付きましたか!」
景気のいい声の持ち主は、景気のいい身振り手振りで入ってくるなり、景気のいい表情でそう言った。
「結構、結構」
両手をさささっとすり合わせたかと思うと、ぱんっと景気のいい音を立てて打ち合わせた。ぼくは男の様子をほれぼれしてみていた。本当はぼくから家を巻き上げてしまう大悪党なのだが、この景気のよさは尋常じゃない。ここまでいくと芸の域だ。金を払ってもいい。っていうか、家を明け渡すわけだが。
「それじゃぼくはこれで」
「いやいや」景気のいい声の持ち主は、実に景気のいいタイミングでぼくの言葉を遮ると、驚くべきことを言った。「それじゃまるでわたしが貴兄から家を巻き上げて追い出すみたいなことになってしまう」
ぼくから家を巻き上げて追い出したんじゃなかったのか?
「行く当てはあるのかね?」
「いえ。まだ」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主はまた、さささっと両手をすり合わせた。今度は手を打ち合わせなかったので景気のいいぱんっという音が聞けなくてちょっと残念な気さえした。「どうだね、ひとつ、ここに住み続けるというのは」
あっけにとられて返事もできないでいるぼくを見て、景気のいい声の持ち主は、いまだかつて聞いたこともないほど景気のいい笑い声で、かんらかんらと笑った。かんらかんらという笑い声が実際に存在するということを、ぼくはこの日初めて知った。
「驚くのも無理はない。でも考えてご覧。こんなにさっぱり綺麗になった家で暮らすことを」それから景気のいい声の持ち主は、とびっきり景気のいい笑顔でぼくを覗き込んで、いたずらっぽく言うとウィンクした。「いままでの貴兄の部屋はどんな状態でした?」
「はあ、まあ、ぐちゃぐちゃでした」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主は、景気のいいカウントでうなずきつつ、ひどく感じ入ったような声で続けた。「だからわたしみたいなもんと関わることになってしまった。これは残念なことです。誰だってわたしみたいなもんと関わってロクなことはない。借りた金は一瞬でなくなる。利子は高い。悪い噂を立てられて友人は逃げていく。仕事場にもいたたまれなくなる。恋人を失う人や親に勘当される人もいる。挙げ句にこうして家からも追い立てられてしまう」
ぼくは、簡潔にまとめられた自分の不幸を聞かされて少し悲しくなったが、なにしろ景気のいい調子で語られるので不思議と悲惨な気はしなかった。まさしくこの部屋で過ごした日々は疫病神の取り憑かれた日々だったのだ。
「でもね、わたしだってそれじゃ後味が悪い」景気のいい声の持ち主は、両手をぱっと広げて、まるで一年ぶりに都会から帰ってきた息子を抱きしめようとするイタリア人の田舎のお母さんのような笑みを浮かべた。すこぶる景気がいい。「挽回のチャンスを、みなさんにさしあげているんですよ」
挽回のチャンスというのはつまり、景気のいい声の持ち主のもとで働くなら、このまま家にとどまれる、おまけにどんどんお金もたまる、という景気のいい話だった。一年後にはこんな鰻の寝床みたいなワンルームマンションじゃなく、もっと立派なオートロック付きの、新婚さんにも人気のデザイナーズマンションにだって移れるという景気のいい未来も示された。話を聞いているうちに本当に心が動くほど景気のいい話だったが、ぼくは断った。
「そうかねそうかね」景気のいい声の持ち主は、きらりと目を光らせてこう言った。「もちろん、選ぶのは君の自由だ。わたしも無理強いはしない。ただし出て行くのなら、部屋を改めさせてもらうことになります」
そう言うなり景気のいい声の持ち主は身をひるがえし、景気のいい足さばきで狭い部屋の中を見て回り、部屋の突き当たりのベランダへの窓を開けてエアコンの室外機を指差し確認し、エアコンを作動させ、クローゼットを開け、上の方まで確認し、コンセント一つ一つに何かを差し込んで、コンロに火をつけ……と驚くほど無駄なくてきぱきと部屋のすみずみまでチェックしてまわった。ぼくはドキドキしてその場で倒れてしまいそうだった。気づかれるだろうか? 気づかれるだろうか?
「素晴らしい!」景気のいい声がそう言った。「これ、貴兄が一人で片付けたのかね?」
「はい、そうです」
「なかなかここまできちんとできる人はいないものです」景気のいい声の持ち主は満足そうに言うと、見事なまでの景気のいい笑みを浮かべ続けた。「ただ一点を除いてはね」
「え?」
「電話はどこです」
ぼくは手にしていた鞄をかかえこんだ。
「正直な方だ」景気のいい声の持ち主は短く言った。「あけなさい」
ぼくは鞄をあけた。汚く詰めこまれた衣類の影にぼくが何年も使い続けた黒電話が入っていた。景気のいい声の持ち主は目にもとまらぬ動作で黒電話を抜き取ると下駄箱の上においた。
「思い出がつまっているというわけですかな」
ぼくは黙ってうなずいた。そうだ。ぎっしり思い出が詰まっている。この6年ぶんの。
「でもこれは貴兄のものではない。備品です。持ち出すわけにはいかない」
「はい」
「さあ。これで全て確認できました。片付けご苦労様。貴兄の輝かしい未来を祈るよ」
こうしてぼくは解放され、疫病神にとりつかれた6年間を過ごした部屋を離れることになった。これからは、自己流で身につけた陰陽師の力でどこまで食っていけるか試すことになる。そんなに簡単にうまくいくわけないが、構わない。ぼくの気は晴れている。なぜならぼくに取り憑いた疫病神はあの黒電話に封じ込んだからだ。黒電話が再び電話回線につながった時、疫病神はそのそばにいた者に取り憑く。
ぼくから何もかも奪った景気のいい声の持ち主と、疫病神と、どちらの力の方が強いのかその対決を見てみたくもあるが、それは欲張り過ぎだろう。ワンルームマンションの敷地から出る時に、どこかから「ええ?」という景気の悪い声が聞こえた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
(「電話」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
「や。片付きましたか!」
景気のいい声の持ち主は、景気のいい身振り手振りで入ってくるなり、景気のいい表情でそう言った。
「結構、結構」
両手をさささっとすり合わせたかと思うと、ぱんっと景気のいい音を立てて打ち合わせた。ぼくは男の様子をほれぼれしてみていた。本当はぼくから家を巻き上げてしまう大悪党なのだが、この景気のよさは尋常じゃない。ここまでいくと芸の域だ。金を払ってもいい。っていうか、家を明け渡すわけだが。
「それじゃぼくはこれで」
「いやいや」景気のいい声の持ち主は、実に景気のいいタイミングでぼくの言葉を遮ると、驚くべきことを言った。「それじゃまるでわたしが貴兄から家を巻き上げて追い出すみたいなことになってしまう」
ぼくから家を巻き上げて追い出したんじゃなかったのか?
「行く当てはあるのかね?」
「いえ。まだ」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主はまた、さささっと両手をすり合わせた。今度は手を打ち合わせなかったので景気のいいぱんっという音が聞けなくてちょっと残念な気さえした。「どうだね、ひとつ、ここに住み続けるというのは」
あっけにとられて返事もできないでいるぼくを見て、景気のいい声の持ち主は、いまだかつて聞いたこともないほど景気のいい笑い声で、かんらかんらと笑った。かんらかんらという笑い声が実際に存在するということを、ぼくはこの日初めて知った。
「驚くのも無理はない。でも考えてご覧。こんなにさっぱり綺麗になった家で暮らすことを」それから景気のいい声の持ち主は、とびっきり景気のいい笑顔でぼくを覗き込んで、いたずらっぽく言うとウィンクした。「いままでの貴兄の部屋はどんな状態でした?」
「はあ、まあ、ぐちゃぐちゃでした」
「そうだろうそうだろう」景気のいい声の持ち主は、景気のいいカウントでうなずきつつ、ひどく感じ入ったような声で続けた。「だからわたしみたいなもんと関わることになってしまった。これは残念なことです。誰だってわたしみたいなもんと関わってロクなことはない。借りた金は一瞬でなくなる。利子は高い。悪い噂を立てられて友人は逃げていく。仕事場にもいたたまれなくなる。恋人を失う人や親に勘当される人もいる。挙げ句にこうして家からも追い立てられてしまう」
ぼくは、簡潔にまとめられた自分の不幸を聞かされて少し悲しくなったが、なにしろ景気のいい調子で語られるので不思議と悲惨な気はしなかった。まさしくこの部屋で過ごした日々は疫病神の取り憑かれた日々だったのだ。
「でもね、わたしだってそれじゃ後味が悪い」景気のいい声の持ち主は、両手をぱっと広げて、まるで一年ぶりに都会から帰ってきた息子を抱きしめようとするイタリア人の田舎のお母さんのような笑みを浮かべた。すこぶる景気がいい。「挽回のチャンスを、みなさんにさしあげているんですよ」
挽回のチャンスというのはつまり、景気のいい声の持ち主のもとで働くなら、このまま家にとどまれる、おまけにどんどんお金もたまる、という景気のいい話だった。一年後にはこんな鰻の寝床みたいなワンルームマンションじゃなく、もっと立派なオートロック付きの、新婚さんにも人気のデザイナーズマンションにだって移れるという景気のいい未来も示された。話を聞いているうちに本当に心が動くほど景気のいい話だったが、ぼくは断った。
「そうかねそうかね」景気のいい声の持ち主は、きらりと目を光らせてこう言った。「もちろん、選ぶのは君の自由だ。わたしも無理強いはしない。ただし出て行くのなら、部屋を改めさせてもらうことになります」
そう言うなり景気のいい声の持ち主は身をひるがえし、景気のいい足さばきで狭い部屋の中を見て回り、部屋の突き当たりのベランダへの窓を開けてエアコンの室外機を指差し確認し、エアコンを作動させ、クローゼットを開け、上の方まで確認し、コンセント一つ一つに何かを差し込んで、コンロに火をつけ……と驚くほど無駄なくてきぱきと部屋のすみずみまでチェックしてまわった。ぼくはドキドキしてその場で倒れてしまいそうだった。気づかれるだろうか? 気づかれるだろうか?
「素晴らしい!」景気のいい声がそう言った。「これ、貴兄が一人で片付けたのかね?」
「はい、そうです」
「なかなかここまできちんとできる人はいないものです」景気のいい声の持ち主は満足そうに言うと、見事なまでの景気のいい笑みを浮かべ続けた。「ただ一点を除いてはね」
「え?」
「電話はどこです」
ぼくは手にしていた鞄をかかえこんだ。
「正直な方だ」景気のいい声の持ち主は短く言った。「あけなさい」
ぼくは鞄をあけた。汚く詰めこまれた衣類の影にぼくが何年も使い続けた黒電話が入っていた。景気のいい声の持ち主は目にもとまらぬ動作で黒電話を抜き取ると下駄箱の上においた。
「思い出がつまっているというわけですかな」
ぼくは黙ってうなずいた。そうだ。ぎっしり思い出が詰まっている。この6年ぶんの。
「でもこれは貴兄のものではない。備品です。持ち出すわけにはいかない」
「はい」
「さあ。これで全て確認できました。片付けご苦労様。貴兄の輝かしい未来を祈るよ」
こうしてぼくは解放され、疫病神にとりつかれた6年間を過ごした部屋を離れることになった。これからは、自己流で身につけた陰陽師の力でどこまで食っていけるか試すことになる。そんなに簡単にうまくいくわけないが、構わない。ぼくの気は晴れている。なぜならぼくに取り憑いた疫病神はあの黒電話に封じ込んだからだ。黒電話が再び電話回線につながった時、疫病神はそのそばにいた者に取り憑く。
ぼくから何もかも奪った景気のいい声の持ち主と、疫病神と、どちらの力の方が強いのかその対決を見てみたくもあるが、それは欲張り過ぎだろう。ワンルームマンションの敷地から出る時に、どこかから「ええ?」という景気の悪い声が聞こえた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
(「電話」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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