◇ 楚2009/08/01 21:55:12

 「楚々とした」と聞くとなぜか幼い頃の情景を思い出す。
 夏休み。田舎のおばあちゃんの家。味が濃くて量が多過ぎる晩ご飯を食べ終わるとおじさんが用意していた花火を出してくれる。ぼくらは暗くなった庭に飛び出し、恐る恐るマッチを使う。勢い良く吹き出した花火にびっくりしていたら、一つ上年の従姉の笑い声がする。見上げると従姉は浴衣を着て花火の光を下から浴びて、昼間見るのとは全然違って見える。その時の彼女の顔を思い出す。いや。その時の庭の闇と、花火と、見えたような気がする螢の光と、白く浮かびあがる彼女の微笑み。遠い夏の日の思い出の中の美。

     *     *     *

 「楚々としたなんて言葉、聞いたことがないなあ」タケが横から覗き込んで言った。「それ、かわいいってこと? 紹介しろよ、従姉妹」
 「読んでんじゃねーよ」トオルはそれほどいやそうでもなく紙をしまった。「これは創作」
 「とかいって、いまでも好きなんじゃねーの?」
 「おれには田舎もねーし、従姉妹もいねーの」

 グラウンドから野球部がランニングに合わせて、「せ!」とか「えい!」とかいうかけ声が聞こえてくる。放課後の教室。期末考査も終わって夏休み直前の天国の日々。今日返って来たいまいましいテストの答案用紙さえなければ、という注釈つき話だが、それでもまあ天国の日々。授業もないし、テストも当分ない。夏はこれからだし、ミンミンゼミも鳴きはじめた。

 「それ、どうすんの?」
 「それって?」
 「その、ソーサク」
 「ああ」トオルはカバンに目をやり、タケに向かって笑った。「わかんね。急に思いついて書いた」
 「なんだそれ。イタコかよおまえ」
 「イタコじゃねーよ」トオルは笑い、窓の外のグラウンドを眺める。「あーあ、あいつ」
 「どした?」
 「ほれ、ランニング。ハギワラ見てみ」
 「ハギワラがどした?」
 「また所定のポジションだ」
 「所定のポジション?」
 「そ。ビリ」

     *     *     *

 そのときハギワラはランニングとは関係ないことで悩んでいた。さっきから頭の中をある音楽がグルグルと回り続け、逃れられなくなっていたのだ。しかもそれはランニングのペースとは全く関係のない音楽だった。スポーツ刈りの頭からは汗がたらたら流れ落ち、顎を伝ってぽたぽたと落ちて行く。蝉の声がやかましく近づいたり遠のいたりするのは、自分たちが近づいたり遠ざかったりしているせいだ。

 他の部員のペースについて行けずどんどん遅れてしまうのはいつものことだ。それにしても今日はひどい。頭の中で鳴り響く音楽のせいで足のリズムも乱れ、しかも時々自分がどこを走っているのかわからなくなる。くそ。あのオペラ親父め。ハギワラは胸の内で父親に向かって毒づく。日曜日ごとにがんがんがんがんオペラをかけやがって。おれの足が遅いのは親父のせいだ。オペラなんか聞かされて育ったせいだ。

 頭の中でオペラが鳴り続けることだけならまだよかった。ハギワラはさらなる苦しみを味わっていた。何だっけこの曲。この曲のタイトル、何だっけ? そう。ハギワラは知っているはずのその曲の曲名を思い出せないことにも苦しんでいたのだ。意識がだんだんもうろうとなって来て、ますます正解は遠のいて行く。ロッシーニだ。急にそう思う。いやモーツァルト。ちがうちがう。モーツァルトのはもっと別な。フィガロの結婚! だからそれはモーツァルトで。

 「ハギワラ!」
 どこかで誰かが叫んだ。空が大きく回り込み、一瞬にして暗闇が押し寄せて来た。蝉の声が一定になった。理髪師だよ、と誰かが囁いた。どこに? どこにじゃねーよ。理髪師だってば。ああ。ハギワラは遠のく意識の中でやっと正解にたどりついた。
 「理髪師だ」
 「ハギワラ! 大丈夫か。しっかりしろ!ハギワラ!いま水を持ってくるから」
 「理髪師だよ、セビリヤ」

     *     *     *

 萩原教授の元に息子が倒れたと言う連絡が入ったのは講義の終盤だった。講義は幾何学的錯視に関するものだった。実際には一直線の線分が、平行線によって中断されることでずれているように見えるポッゲンドルフ錯視。同じ長さの3本の線分が、遠近法を思わせる2本の直線にはさまれることで長さが異なって感じられるポンゾ錯視。どのようにしてそれが起こるのかを簡単に説明し、まず学生達にそれを体験してもらおうという実験にとりかかろうとしていた。

 「こういう図形はみんなよく知っていると思う」萩原教授はプロジェクターを操作しながら言った。「矢印が外側に向いているのと、線分を両端から内側に挟み込んで見えるもの。こういう錯視のこと、何て言うか知ってるか? 藤枝君」
 「ミューラー・リヤー錯視です」
 藤枝と呼ばれた女子学生は即答した。
 「ご名答」満足げにうなずくと萩原教授は教室を見回した。「だから結論はみんな知っている。ひっかかるまいとすることもできる。そういう警戒心たっぷりな諸君にやってもらうことこそが醍醐味なんだな」

 藤枝小夜子はその実験を体験済みだった。萩原教授は小夜子にいろいろな実験をさせたがったからだ。それが何を意味するのか小夜子にはよくわからなかった。教授が小夜子のことを本当に好きだからなのか、身体だけが目的ではないことを示そうというパフォーマンスなのか、それともただ本当に心理学が大好きだからなのか。考えてもわからないことだから考えないことにしている。

 小夜子は固定された内向図形を見ながら、線分の長さを自由に変えられる外向図形を調節し、同じ長さだと思ったところで止めて計測する。長くなるに決まっている。そういうものだからだ。誰かが誰かを騙しているわけではない。でも心でこうだと思うことと、実際の間にはズレが生じてしまうのだ。錯視を利用して誰かを騙すことはできるかもしれない。けれど錯視そのものは誰の身にも起こる単なる現象に過ぎない。

 「萩原先生」前方のドアが開き、事務長が駆け込んできて、萩原教授の言葉を途中で止まった。「先生、息子さんの学校から連絡がありまして」
 それを聞いて小夜子の中で何かがふくれあがり始める。小夜子の心の中で警報が鳴り渡る。入って来てはならないものが入って来たのだ。教授とわたしの世界にそんなものはいない。そんなものはいらない。

 いつもは大人しい真面目な藤枝小夜子が、大きな声を出して立ち上がったので、教室内は騒然となる。両腕を振り回しぶざまに暴れはじめた小夜子を男子学生が数人掛かりでとりおさえ、小夜子が泡を吹きはじめたので救急車が呼ばれた。小夜子が何かをうわごとにように呟いているので、何人かが聞き取ろうとしたが、はっきりとはわからなかった。後になってその話を聞かされた萩原教授だけがそれが何だったのかがわかった。自分の講義が中断された時に最後にしゃべっていた言葉だった。けれども小夜子がそれを繰り返すということが何を意味するのか、教授にはわからなかった。「つまりここで見られるのはポンゾ及びリヤー」

     *     *     *

 タケの順番が回って来てキューにチョークをつけているところで、トオルから電話がかかって来た。いつもは冷静なトオルがひどく興奮していて何を言っているのかよくわからない。イメージどおりだったとか、ちょっと違う気もしたとか、偶然が重なってとか、話があっちこっちに行ってさっぱり要領を得ない。何度も聞き直してようやく、トオルに従姉がいたらしいということだけわかった。

「従姉なんていねーって言ってたじゃん」
「だからいたんだよ」
「なんで」
「従姉がいるのになんでもねーだろ」
「ちげーよ。なんでわかったのって」
「おふくろがさ、親戚に言われて病院に見舞いに行ったわけ」
「はあ?」
「うち帰ったらおふくろいなくてよ」
「はあ」
「小夜子さんが入院したそうなのでお見舞いに行きますとか書いてあるわけ」
「はあ?」
「で、急にピンと来ておれ、病院行ったわけさ」
「はあ」
「それが従姉だったわけ」
「はあ」
「そしたらそこにハギワラも入院しててさ」
「はあ」
「すげーだろ」
「全然わかんねーんだけど」
「もういいよ」
「っつーか、何それ。全然わかんねー。何かすげー腹立つ」
「わりぃわりぃ」
「じゃ、あれ、ソーサクじゃなかったの?」
「わかんね」
「んだよ、それ。この電話。何?」
「またちゃんと説明するわ。いま何してた?」
「え、おれ? ビリヤード」

(「ビリヤード」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 来[3]2009/08/10 08:59:33

 部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。
「おうっ! どうでい、調子は!」
「さっきまでは良かった」
「いまはどうした!」
「おまえが来たから調子が狂った」
「ぁに言ってやぁんでい。こちとら約束だから来てんじゃねえか」
「何だよ約束って」
「あれだよあれ、あのからっきし何だったべらぼうな何のあれが」
「まあ落ち着きねえ。そんな砂をまき散らされちゃ、せっかく片付けた部屋が台無しだ。まあ水でも飲んで」
「水?」
「ああ水だ」
「水があるのかい?」
「なけりゃあ出さねえよ」
「まいったねこりゃ、へへっ! 水をいただけるんでげすかっときたもんだ」
「そんなタイコモチみたいにならなくても水くらいちゃんと出すよ。ほらちょっとだけど大事に飲みな」
「お、こりゃあ何とも、水のように透き通ってらあ」
「まあ、水だからね」
「たはっ。聞いたかい? 揺らしたら、たぷん、なんて言いやがる」
「そうかい?」
「ほら、たぷん! な、たぷん! おおおっと、いけねえ。危ねえ危ねえ。あやうくこぼしっちまうところだったよ。ぜんてえ、水ってえものは古来、覆水盆に……」
「能書きはいいから早く飲みなよ」
「んじゃあ、遠慮なくいただくよ。んぐっんぐっんぐっんぐ」
「噺家が酒を飲んでるみたいな飲み方をしやがる」
「ぷはあ〜っ。うまいね。こんな純度の高い上物のブツはなかなかお目にかかれねえ」
「おいおい人聞きの悪いことを言わないでくれよ。いま世間じゃそういうの、何かとうるさいんだから」
「安心しろ。尿検査は絶対に断るから」
「だからそういうことを言うんじゃないよ。で、何なんだい、そんな泡食って駆けつけて来て」
「おう、それだ! まあ聞きねえ。こないだ湯島砂丘で見つけたあのケッタイな入れ物覚えてるか」
「うん。薄気味悪いものがいろいろ詰まっていたって」
「おうよ、おれぁホントに驚いたんだが、あれがおめえさんの言ったとおり、やっぱり生き物らしいんだ」
「生き物? 本当に? あれが? 歩き回りでもしたか?」
「冗談じゃねえ。あんなのがうろちょろし始めたらおれぁおっかなくってこうやって外に出てくることもできゃしない」
「じゃあどうして生き物ってわかった?」
「それがさ。あいつら水を吸って育つらしいんだ」
「贅沢なやつだね」
「うちの研究所はほら、金さえかければ水はつくれるからってんで、あいつらにくれてやったんだ。そうしたらどうなったと思う?」
「お礼を言った」
「しゃべらねえよ! あいつらはしゃべらねえよ。人間じゃねえんだから。っつーか、こっちはあれが生き物だってだけで驚いてるんだ。しゃべったらまずそこから話すだろうが」
「じゃあ降参だ」
「大きくなるんだ」
「予想もできなかったな。水を吸って育つって聞いてなければ」
「るせーな。聞いて驚くな。あいつら空気中から炭素を取り込んで大きくなりやがるんだ」
「またまた」
「冗談じゃねえって。どうやってんのかはわからねえが、空気中の二酸化炭素を取り込んで、中でばらして炭素を身体に組み込んで大きくなって、残った酸素を吐き出しているらしい」
「なんだって? 酸素を自力で創り出しているってのか?」
「おうよ」
「んなバカな話があるもんか。そんなものがあったら、おれたちの科学なんていらなくなっちまうじゃねえか」
「間違いない。炭素を取り込んで、酸素を出している」
「信じられんな。どのくらいの勢いで大きくなるんだ?」
「大したことはない。でもなんだか薄気味悪いひらひらした緑色のものをどんどん増殖させているのが気になる」
「緑ってどんな色だ?」
「そうさな、おまえの家なら寝室の壁の色をもうちょっと濃くすると緑だ」
「自然界じゃ見かけない色だな」
「薄気味悪いよ、まったく」
「で、どうする?」
「だから持って来たよ」
「なにをっ?」
「ほら約束だからよ。おまえにやるよ。ほら。この入れ物ごとくれてやる」
「やめろ。悪い病気にでもなったらどうしてくれる」
「えんがちょ切った!」
「んのやろ! 待て! 何しやがんでい、こんな薄気味悪いもの!」

     *     *     *

「おじいちゃん、ひょっとしてそれ」
「ああ、そうだよ。これさ。立派に成長して日陰をつくってくれている」
「おじいちゃんが若い頃には木がなかったの?」
「なかった。こいつが空気中の炭素を溜め込んで、酸素を吐き出してくれて、仲間を増やして、それからだんだん緑色のものが増えだしたんだよ」
「信じられないなあ。で、結局それが入ってた入れ物って何だったの?」
「古代文明の遺物さ。文書も同梱されていてな、判読できた文章にはこうあった。『子孫へ。これに水をやって日の光に当てろ。快適な環境を約束する。』」
「昔の宗教かなにかなのね」孫娘は細かい剛毛に覆われた肢を4本使って、木の葉をかき分けながら言った。「でもわたしたちには酸素が多過ぎるわ」
「まったくだ」8本肢の祖父は複数の目をキラキラさせながら言った。「よくまあ悪い病気にならずに生きて来れたと思うよ。良かったことと言ったらうまい虫が増えたことくらいかな」

(「約束」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 本2009/08/11 15:46:41

 読むものがなくても、お話には不自由しなかった。
 彼らがいたから。
 彼らの誰かが話を始めると、たちまちそこは物語の世界になった。テツさんと呼ばれていた年老いた男性は、中国の古い時代の人々の話がとても上手だった。わたしは昔の中国のこともいまの中国のことも知らなかったけれど、お話を聞いていれば、昔の中国の市場の雑踏の賑わいや、酒場での喧嘩の様子、権力者たちの駆け引きなどがありありと目に浮かんだ。テツさんは家に棲む不思議な生き物についてのちょっとこわい話も上手だった。怯えながら話を聞くわたしを見て、シェリーと呼ばれていた女性がテツさんをたしなめていたことも思い出す。

 シェリーさんは、本当はノリコさんというのだけれど、みんなにシェリーと呼ばれて一目を置かれていた。たぶんお話がとても上手だったからではないかと思う。彼らはお話をすることを仕事にしていたからだ。もっとも、わたしが彼らと暮らした子ども時代、彼らはその、お話の仕事をできなくなっていた。わたしが生まれるよりずっと前には、彼らはみんな世界中を飛び回って、世界中の人々にお話を聞かせていたらしい。

 彼らの中で一番若かったトオルさんが聞かせてくれただけでも、イラク、コンゴ、南オセチア、チェチェン、スペインなどの国でいろいろなお話をしてきたらしい。トオルさんは自分が訪れた国の風景や、人々の親切さ、食べ物のおいしさの話をしてくれたので、わたしは自分も遠い国を旅しているような気持になった。旅先でスリにあったり、食べ物が合わなくてお腹をこわしたり、なんて話も胸がドキドキするくらい夢中で聞いた。

 でも、トオルさんがときどき興奮して、世界が我々を必要としていたんだ!と熱心に話し始めるとテツさんや、アオイさんがニコニコしながら、およしなさい、マチコがびっくりしてるじゃないかとなだめたものだ。確かにかつて世界は我々を必要としていたかもしれないけれど、いまは我々にうろちょろしてほしくないと思っている。いま我々はマチコちゃんにお店に行ってもらわなければろくに食事だってできない状態だ。大事にされた時期もあるが、いまはこの通り邪険にされている。イッテコイ。プラマイゼロ。それを受け入れなくては。

 だけど!とトオルさんは悔しそうに言いかけてやめる。トオルさんはテツさんやシェリーさんやアオイさんや、無口なゲンさんや、“魔術師”と呼ばれていたハラさんのことを本当に尊敬していたからだ。トオルさんは時々こっそりわたしに彼らがどんなにすごい語り手なのかについて聞かせてくれた。世界各国の紛争地を訪れ、時には独裁者に会い、時には要人の中の何人かに会い、時にはその国の議会で演説し、彼らをお話に夢中にさせたそうだ。ナレーターは政治家でも外交官でもないので、ただ面白い話をするだけなのに、多くの場合、一触即発の状態にあった紛争は小康状態に戻るのだという。

 ナレーター・システムは世界的に評価されていたんだ。理詰めでもなく、感情論でもなく、もちろん武力や威圧や脅迫でもなく、紛争を実質的に緩和させる解決策としてね! そしてトオルさんの先輩たちがどこの国でどんな活躍をして来たのか、熱心に、しかしこっそりと聞かせてくれた。いまでもわたしはその時のトオルさんの目を覚えている。トオルさんはテツさんやシェリーさんをはじめ、いまはここにはいない人たちも含めて、先輩の語り手たちを本当に尊敬していて、自分はともかくその語り手たちがいま、こうして不遇の環境にあることを心から悔しがっていたのだ。子どものわたしにもそれがすごくよく、くっきりとわかった。

 ある晩、みんなが集まっているとき、それは始まった。きっかけはわたしのひと言だった。みんな、いつからそんなにお話が上手だったの? いつから? 珍しくゲンさんが口を開き、“魔術師”のハラさんが、最初の仕事、ナレーター・システムに採用された時、人生で初めて自分が語り手だと気づいた時、いろいろあるが、さあどれが面白いだろう、と言った。

 初めてのこと、ね。うっとりとした口調でシェリーさんが言い、そうだ、それだとテツさんが応じて、その話が始まったんだ。当代随一の語り手たちが、自分が語り手だと悟った初めてについて、目もくらむようなお話が始まったんだ。この本は、そのときわたしが聞いたお話の本だ。

(「初めてのこと」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 来[4]2009/08/22 17:53:53

 部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。しばらく耳を澄ませていたが、声はそのまま通り過ぎていってしまった。声がすっかり遠ざかるとと後はしんとしてもう何も聞こえてこない。おれはそのまましばらくじっとしていたが、もう誰も来ないようなので窓のそばに寄ってそっと外の様子をうかがった。家の前にも森の中にも人の気配はなかった。おれはほっと息をついて窓辺に置いた椅子に腰をおろした。

 目の前の低いテーブルには、さっき片付けの最中に見つけたお茶の葉がのっている。イワノフがくれたお茶だ。遊びに行くといつもイワノフはこのお茶を入れてくれた。故郷で飲んでいた飲み物に似ているのだと奴は言っていたが、おれにはこのあたりの村人が飲むものとどう違うのかよくわからない。おれの国ではお茶を飲む習慣などなかったからだ。でも奴の小屋に通ううちイワノフのいれたお茶には慣れた。おいしいと思うようになった。

 思えばずいぶんまめな男だった。お茶を入れ、料理をつくり、山の中で拾って来た木の実を使って菓子を焼いたりもしていた。おしゃべりな男で、料理一つひとつについて、故郷の思い出話を聞かせてくれる。これは自分の方が女房より上手に作れる。こっちのパイはもっといい肉があれば良かったんだが。女房の作る菓子は絶品で、子どもたちはおおはしゃぎだった。遠い目をして子どもの話を始めるととまらなかった。

 そして二言目には言ったものだ。みんなと仲良くしたいんだ、ゲオルク。食べ物は基本だろう? おいしいものを一緒に食べれば人と人は仲良くなれる。そんなものかな、とおれは思ったが、事実おれがうまいお茶やうまい料理を目当てにイワノフのところに通っていたのだから、当たっているのかもしれない。そう思った。

 イワノフは村人に宛てて手紙をしたため、招待状を送り、小屋をきれいに掃除して、料理やらお茶やらおみやげやらを用意した。あの臆病な原住民どもが来るもんかとおれは言ったが、何人かの村人がやってきた。森の中の道を案内状の通りにたどって来て、イワノフの小屋の前に現れた。小屋の前に置かれたテーブルには、土産の包みと菓子ののった皿があり、これをつまんでお待ちくださいと書いてあった。村人たちは恐る恐るそれを手に取り、ひとりが口に運んだ。それを見てイワノフは満面の笑みを浮かべて小屋から出てきたんだ。

 結果はさんざんだった。村人たちはイワノフが近づくと恐怖で逃げ惑い、持ち帰った土産も結局食べられることはなかった。イワノフの作った食べ物を投げ捨て踏みにじり、イワノフが乾かないように丁寧に包んだお茶の葉を燃え盛る火の中に投げ込んだ。おれはその全てを見てしまった。イワノフもたぶん見ていたと思う。おれは腹が立った。煮えくり返るくらい腹が立ったので、原住民の村を襲撃してやろうかと思った。あいつらはイワノフのことを赤い悪魔と呼んでいたのだ。

 ところが翌日おれが小屋をたずねるとイワノフは気の弱そうな微笑みを浮かべて、何がいけなかったんだろうね?とおれに尋ねた。正直おれは、こいつ阿呆かと思った。でも考え直した。おれは一人でも生きて行ける。たまにイワノフと会っているだけでも十分だ。でもこいつはもっとたくさんの人間とつきあっていないとやっていけないんだ。料理が上手で、おしゃべりが大好きで、なにより人間が大好きだったんだ。

 おれは提案した。おれが村に行って暴れるから、おまえはおれをぶん殴って追い払え。あいつらはお前のことを赤い悪魔、おれのことを青い悪魔と呼んでいる。青い悪魔は悪者で、赤い悪魔は村人の味方だと思わせればいい。なに、おれはあんなやつらと仲良くする気なんかこれっぽっちもないから安心しろ。

 計画は大成功だった。村人はすぐにイワノフと仲良くなった。計画外だったのはイワノフは思っていたより力が強く、おれはしばらく寝込んでしまったことだが、それでも物事が思った通りに進んで大満足だった。でもやがて気がついた。このままおれとイワノフが今まで通り付き合っていたら、村人は疑い始めるに違いない。そこでおれは怪我が治るとすぐに、痛い腰をさすりながら棲み家を引き払った。山を越え、谷を越え、はるか遠くを目指し、ここに来た。

 悪い噂は早いもので、方々でおれは恐ろしい青い悪魔扱いされ、何度も山狩りに合いそうになった。だから場所を変え、気配を隠し、用心して山の奥深くを選んで棲んだ。ここを見つけるのに冬を越し、一年近く立った。いまはこうして横穴を泥で塗り固め、外からはただの崖にしか見えないような場所に住んでいる。村人に気づかれさえしなければいいのだ。野生の豚を狩り、鹿をつかまえ、野草と一緒にぐつぐつ煮込めばそれでいい。たまにはイワノフの料理が恋しくなるが、おれはもともと料理の味なんか気にしない。

 でもこうしてイワノフのお茶の葉が見つかったのは素直に嬉しい。おれは外に誰もいないのを確かめて、火を起こし、湯を沸かした。そうしてイワノフがやっていたように、お茶の葉を湯に放り込み、しばらく時間を置いてから器にあけて飲んでみた。味はひどく薄かったが、あのころ飲んだのと同じような味がした。お茶の葉の包みから紙がのぞいていたので手に取ると、ゲオルク、時間を置くと味が落ちるので早く飲んでくれ。賞味期限は1カ月以内だ、と書いてあった。まめな男だ。そう思ったら急にイワノフに会いたくなり、おれは大声を上げて泣き出していた。

(「期限」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 柳2009/08/30 18:45:38

 ステップなど踏めなくとも、おまえが風のダンス・パートナーだ。

 一本の柳の木を前にして発したこの言葉が風博士の辞世の言葉だという説もあるが、それはさすがに出来過ぎだろう、とわたしは思う。だいたい臨終の際に目の前に柳の木があるという状況がよく分からない。のたれ死にをしたということだろうか。確かにのたれ死にしそうな人ではあるけれど、だったらこんなキザなことを言っている場合ではないはずだ。

 それにわたしはあの人が柳の木の前で死んだわけではないことを知っている。もし本当に柳の木に向かってそんなことを言ったのなら、それはもっと別な場所、別な時間のできごとだ。だからたぶん、いや間違いなく、本当の最期の言葉はもっとろくでもないものだったはずだ。「ケチャップ買い忘れた」とか「冷えるとしょんべんが近くていけない」とか「博士の博って、右上に点がいるんだっけ?」とか、そういうの。そういうのがあの人には合っている。

 世の中に伝えられている「風博士最後の戦い」の後、風博士は風博士を辞めてうちに帰ってきた。何年も何年もろくに連絡も寄越さずにあっちこっちほっつき歩いて、たまにハガキを送ってくると書いてあることは意味不明。島根県で島をうごかしたとか、福島県のハゲ山を苔でおおったとか、長崎は今日も雨だったとか、どこまで本気でどこから冗談なのかさっぱりわけがわからない。

 子どもたちにはもうお父さんはいないものと思わせよう。何度もそう思った。なのにそういう時に限ってハガキが届き、子どもたちは必ずハガキを見つけてしまう。仕方なくわたしは笑顔をつくって、ほらおとうさんがんばってるみたいよ、今度は島根県で島を動かしたんだって。島根県ってどこか地図帳で見てみようね、などと明るい声を出してみせる。あまりにもバカバカしくて子どもたちが寝た後に身体の芯が抜けてしまったような疲れを感じた。

 どこで何をして稼ぐのかある日いきなりとんでもない金額のお金が銀行に振り込まれていたりするのも、感謝しないわけではないが、とても疲れた。わたしは何を頼ればいいかわからず、こつこつと働いてちょっとずつ入るお金を工面して生活しているのに、何の説明もなく法外なお金が口座にはいっていたりすると、そういう苦労をばかにされたように感じてしまうのだ。

 あの人が風博士と名乗って、あちこちで何やら神話じみた活動をしていると知ったのは、何年もたってからのことだった。最初に見たのはテレビ番組の改編期だった。なんとかスペシャルとかいう番組の中で、全国各地のローカルニュースに登場した奇人変人を紹介するコーナーがあって、そこであの人が出てきたのだ。びっくりした。

 「岩手県のとある小さな村で、リゾート開発とともにヒートアイランド現象が起こってしまったのを、一人の男が解決する! その名も風博士!」というナレーションを耳にしながら、わたしは自分が悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。やがて子どもたちがおとうさんだおとうさんだと騒ぎはじめ、わたしはすごいねえ、すごいねえと言うしかなかった。本当は腹が立って腹が立って仕方なくて、すぐにもでテレビを消したかったのだが、子どもたちのために見続けるしかなかった。やがてそのうち、番組改編期ごとにあの人を見ることになった。あの風博士が今度は静岡に! 風博士徳島にあらわる! 風博士、九州初上陸! 風博士とは何者?

 「最後の戦い」を終えて何を思ったのか、あの人は帰ってきた。帰ってきたあの人はテレビで見ていたような風博士なんかでは全然なく、わたしが一緒に暮らしはじめた頃の動物園の飼育係の気のいい青年がそのまま年をとったようにしか見えなかった。おかえり、とわたしは言って、ちょっと遅くなっちまって、といいわけがましくあの人は答えた。初めて出会ったとき、照れくさそうにもじもじしながら踊りませんかと、わたしをダンスに誘った頃から何も変わっていないように見えた。

 子どもたちはすっかり大きくなって、もう独立してしまっていたけれど、おとうさんが帰ってきたと聞いて二人ともすぐに会いにきてくれた。うらんだってよさそうなものなのに、どうしたわけか二人ともとても嬉しそうにおとうさんおとうさんとなついているので、わたしは一人でその理不尽さを我慢していた。ああそうだ、とあの人は言って、わたしたちに土産を渡してくれた。

 子どもたちには南米で手に入れた縦笛と、中央アジアの打楽器。わたしにはハワイで手に入れたと言う何の変哲もないウクレレ。そしてもう一つウクレレを取り出してお揃いだと笑った。そして、みんな、風の仕事をした時に土地の人がくれたものだと言った。風の仕事? わたしたちはあいまいに笑ってうなずくしかなかった。

 わたしは手に取らなかったけれど、あの人はウクレレを毎日熱心に練習していた。本当はもっと腹を立てて、いろいろ言いたかったはずなのに、気がついたらあの人はわたしの生活の中にすんなり入り込んでいて、ずーっと一度も家から離れたことなどないみたいに振る舞っていた。わたしもだんだんそんな気がしてきていた。

 でも、家に戻ってきて半年ももたずにあの人は死んでしまった。本当はとても重い病気にかかっていたのだが、そんなことはおくびにも出さずに病院に通いもしなかった。毎日普通に生活して、普通に食事をして、庭先で楽譜を前に広げてポロンポロンとウクレレを練習し、そしてある朝、ベッドから起きてこなかった。

 あの人のお葬式にはいろいろ奇妙な人がやってきて、荒唐無稽な思い出話をしていった。風博士が死んだとき、世界中の柳が嘆き悲しみむせび泣いたという話を聞かせてくれたのも、そんな中のひとりだった。柳の眷属は、風博士によって風のダンス・パートナーに任じられたことが嬉しかったのだという。

 今日、片付けをしていたら一枚の楽譜が見つかった。それは、踊りませんかと照れくさそうにあの人がわたしを誘った時、ダンスホールに流れていた曲の譜面だった。いまなら柳たちの気持がわかる。柳が風のダンス・パートナーであるように、この何十年間か、わたしがあの人のダンス・パートナーだったのだから。

(「ウクレレ」ordered by sachiko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)