◇ 柳2009/08/30 18:45:38

 ステップなど踏めなくとも、おまえが風のダンス・パートナーだ。

 一本の柳の木を前にして発したこの言葉が風博士の辞世の言葉だという説もあるが、それはさすがに出来過ぎだろう、とわたしは思う。だいたい臨終の際に目の前に柳の木があるという状況がよく分からない。のたれ死にをしたということだろうか。確かにのたれ死にしそうな人ではあるけれど、だったらこんなキザなことを言っている場合ではないはずだ。

 それにわたしはあの人が柳の木の前で死んだわけではないことを知っている。もし本当に柳の木に向かってそんなことを言ったのなら、それはもっと別な場所、別な時間のできごとだ。だからたぶん、いや間違いなく、本当の最期の言葉はもっとろくでもないものだったはずだ。「ケチャップ買い忘れた」とか「冷えるとしょんべんが近くていけない」とか「博士の博って、右上に点がいるんだっけ?」とか、そういうの。そういうのがあの人には合っている。

 世の中に伝えられている「風博士最後の戦い」の後、風博士は風博士を辞めてうちに帰ってきた。何年も何年もろくに連絡も寄越さずにあっちこっちほっつき歩いて、たまにハガキを送ってくると書いてあることは意味不明。島根県で島をうごかしたとか、福島県のハゲ山を苔でおおったとか、長崎は今日も雨だったとか、どこまで本気でどこから冗談なのかさっぱりわけがわからない。

 子どもたちにはもうお父さんはいないものと思わせよう。何度もそう思った。なのにそういう時に限ってハガキが届き、子どもたちは必ずハガキを見つけてしまう。仕方なくわたしは笑顔をつくって、ほらおとうさんがんばってるみたいよ、今度は島根県で島を動かしたんだって。島根県ってどこか地図帳で見てみようね、などと明るい声を出してみせる。あまりにもバカバカしくて子どもたちが寝た後に身体の芯が抜けてしまったような疲れを感じた。

 どこで何をして稼ぐのかある日いきなりとんでもない金額のお金が銀行に振り込まれていたりするのも、感謝しないわけではないが、とても疲れた。わたしは何を頼ればいいかわからず、こつこつと働いてちょっとずつ入るお金を工面して生活しているのに、何の説明もなく法外なお金が口座にはいっていたりすると、そういう苦労をばかにされたように感じてしまうのだ。

 あの人が風博士と名乗って、あちこちで何やら神話じみた活動をしていると知ったのは、何年もたってからのことだった。最初に見たのはテレビ番組の改編期だった。なんとかスペシャルとかいう番組の中で、全国各地のローカルニュースに登場した奇人変人を紹介するコーナーがあって、そこであの人が出てきたのだ。びっくりした。

 「岩手県のとある小さな村で、リゾート開発とともにヒートアイランド現象が起こってしまったのを、一人の男が解決する! その名も風博士!」というナレーションを耳にしながら、わたしは自分が悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。やがて子どもたちがおとうさんだおとうさんだと騒ぎはじめ、わたしはすごいねえ、すごいねえと言うしかなかった。本当は腹が立って腹が立って仕方なくて、すぐにもでテレビを消したかったのだが、子どもたちのために見続けるしかなかった。やがてそのうち、番組改編期ごとにあの人を見ることになった。あの風博士が今度は静岡に! 風博士徳島にあらわる! 風博士、九州初上陸! 風博士とは何者?

 「最後の戦い」を終えて何を思ったのか、あの人は帰ってきた。帰ってきたあの人はテレビで見ていたような風博士なんかでは全然なく、わたしが一緒に暮らしはじめた頃の動物園の飼育係の気のいい青年がそのまま年をとったようにしか見えなかった。おかえり、とわたしは言って、ちょっと遅くなっちまって、といいわけがましくあの人は答えた。初めて出会ったとき、照れくさそうにもじもじしながら踊りませんかと、わたしをダンスに誘った頃から何も変わっていないように見えた。

 子どもたちはすっかり大きくなって、もう独立してしまっていたけれど、おとうさんが帰ってきたと聞いて二人ともすぐに会いにきてくれた。うらんだってよさそうなものなのに、どうしたわけか二人ともとても嬉しそうにおとうさんおとうさんとなついているので、わたしは一人でその理不尽さを我慢していた。ああそうだ、とあの人は言って、わたしたちに土産を渡してくれた。

 子どもたちには南米で手に入れた縦笛と、中央アジアの打楽器。わたしにはハワイで手に入れたと言う何の変哲もないウクレレ。そしてもう一つウクレレを取り出してお揃いだと笑った。そして、みんな、風の仕事をした時に土地の人がくれたものだと言った。風の仕事? わたしたちはあいまいに笑ってうなずくしかなかった。

 わたしは手に取らなかったけれど、あの人はウクレレを毎日熱心に練習していた。本当はもっと腹を立てて、いろいろ言いたかったはずなのに、気がついたらあの人はわたしの生活の中にすんなり入り込んでいて、ずーっと一度も家から離れたことなどないみたいに振る舞っていた。わたしもだんだんそんな気がしてきていた。

 でも、家に戻ってきて半年ももたずにあの人は死んでしまった。本当はとても重い病気にかかっていたのだが、そんなことはおくびにも出さずに病院に通いもしなかった。毎日普通に生活して、普通に食事をして、庭先で楽譜を前に広げてポロンポロンとウクレレを練習し、そしてある朝、ベッドから起きてこなかった。

 あの人のお葬式にはいろいろ奇妙な人がやってきて、荒唐無稽な思い出話をしていった。風博士が死んだとき、世界中の柳が嘆き悲しみむせび泣いたという話を聞かせてくれたのも、そんな中のひとりだった。柳の眷属は、風博士によって風のダンス・パートナーに任じられたことが嬉しかったのだという。

 今日、片付けをしていたら一枚の楽譜が見つかった。それは、踊りませんかと照れくさそうにあの人がわたしを誘った時、ダンスホールに流れていた曲の譜面だった。いまなら柳たちの気持がわかる。柳が風のダンス・パートナーであるように、この何十年間か、わたしがあの人のダンス・パートナーだったのだから。

(「ウクレレ」ordered by sachiko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 来[4]2009/08/22 17:53:53

 部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。しばらく耳を澄ませていたが、声はそのまま通り過ぎていってしまった。声がすっかり遠ざかるとと後はしんとしてもう何も聞こえてこない。おれはそのまましばらくじっとしていたが、もう誰も来ないようなので窓のそばに寄ってそっと外の様子をうかがった。家の前にも森の中にも人の気配はなかった。おれはほっと息をついて窓辺に置いた椅子に腰をおろした。

 目の前の低いテーブルには、さっき片付けの最中に見つけたお茶の葉がのっている。イワノフがくれたお茶だ。遊びに行くといつもイワノフはこのお茶を入れてくれた。故郷で飲んでいた飲み物に似ているのだと奴は言っていたが、おれにはこのあたりの村人が飲むものとどう違うのかよくわからない。おれの国ではお茶を飲む習慣などなかったからだ。でも奴の小屋に通ううちイワノフのいれたお茶には慣れた。おいしいと思うようになった。

 思えばずいぶんまめな男だった。お茶を入れ、料理をつくり、山の中で拾って来た木の実を使って菓子を焼いたりもしていた。おしゃべりな男で、料理一つひとつについて、故郷の思い出話を聞かせてくれる。これは自分の方が女房より上手に作れる。こっちのパイはもっといい肉があれば良かったんだが。女房の作る菓子は絶品で、子どもたちはおおはしゃぎだった。遠い目をして子どもの話を始めるととまらなかった。

 そして二言目には言ったものだ。みんなと仲良くしたいんだ、ゲオルク。食べ物は基本だろう? おいしいものを一緒に食べれば人と人は仲良くなれる。そんなものかな、とおれは思ったが、事実おれがうまいお茶やうまい料理を目当てにイワノフのところに通っていたのだから、当たっているのかもしれない。そう思った。

 イワノフは村人に宛てて手紙をしたため、招待状を送り、小屋をきれいに掃除して、料理やらお茶やらおみやげやらを用意した。あの臆病な原住民どもが来るもんかとおれは言ったが、何人かの村人がやってきた。森の中の道を案内状の通りにたどって来て、イワノフの小屋の前に現れた。小屋の前に置かれたテーブルには、土産の包みと菓子ののった皿があり、これをつまんでお待ちくださいと書いてあった。村人たちは恐る恐るそれを手に取り、ひとりが口に運んだ。それを見てイワノフは満面の笑みを浮かべて小屋から出てきたんだ。

 結果はさんざんだった。村人たちはイワノフが近づくと恐怖で逃げ惑い、持ち帰った土産も結局食べられることはなかった。イワノフの作った食べ物を投げ捨て踏みにじり、イワノフが乾かないように丁寧に包んだお茶の葉を燃え盛る火の中に投げ込んだ。おれはその全てを見てしまった。イワノフもたぶん見ていたと思う。おれは腹が立った。煮えくり返るくらい腹が立ったので、原住民の村を襲撃してやろうかと思った。あいつらはイワノフのことを赤い悪魔と呼んでいたのだ。

 ところが翌日おれが小屋をたずねるとイワノフは気の弱そうな微笑みを浮かべて、何がいけなかったんだろうね?とおれに尋ねた。正直おれは、こいつ阿呆かと思った。でも考え直した。おれは一人でも生きて行ける。たまにイワノフと会っているだけでも十分だ。でもこいつはもっとたくさんの人間とつきあっていないとやっていけないんだ。料理が上手で、おしゃべりが大好きで、なにより人間が大好きだったんだ。

 おれは提案した。おれが村に行って暴れるから、おまえはおれをぶん殴って追い払え。あいつらはお前のことを赤い悪魔、おれのことを青い悪魔と呼んでいる。青い悪魔は悪者で、赤い悪魔は村人の味方だと思わせればいい。なに、おれはあんなやつらと仲良くする気なんかこれっぽっちもないから安心しろ。

 計画は大成功だった。村人はすぐにイワノフと仲良くなった。計画外だったのはイワノフは思っていたより力が強く、おれはしばらく寝込んでしまったことだが、それでも物事が思った通りに進んで大満足だった。でもやがて気がついた。このままおれとイワノフが今まで通り付き合っていたら、村人は疑い始めるに違いない。そこでおれは怪我が治るとすぐに、痛い腰をさすりながら棲み家を引き払った。山を越え、谷を越え、はるか遠くを目指し、ここに来た。

 悪い噂は早いもので、方々でおれは恐ろしい青い悪魔扱いされ、何度も山狩りに合いそうになった。だから場所を変え、気配を隠し、用心して山の奥深くを選んで棲んだ。ここを見つけるのに冬を越し、一年近く立った。いまはこうして横穴を泥で塗り固め、外からはただの崖にしか見えないような場所に住んでいる。村人に気づかれさえしなければいいのだ。野生の豚を狩り、鹿をつかまえ、野草と一緒にぐつぐつ煮込めばそれでいい。たまにはイワノフの料理が恋しくなるが、おれはもともと料理の味なんか気にしない。

 でもこうしてイワノフのお茶の葉が見つかったのは素直に嬉しい。おれは外に誰もいないのを確かめて、火を起こし、湯を沸かした。そうしてイワノフがやっていたように、お茶の葉を湯に放り込み、しばらく時間を置いてから器にあけて飲んでみた。味はひどく薄かったが、あのころ飲んだのと同じような味がした。お茶の葉の包みから紙がのぞいていたので手に取ると、ゲオルク、時間を置くと味が落ちるので早く飲んでくれ。賞味期限は1カ月以内だ、と書いてあった。まめな男だ。そう思ったら急にイワノフに会いたくなり、おれは大声を上げて泣き出していた。

(「期限」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 本2009/08/11 15:46:41

 読むものがなくても、お話には不自由しなかった。
 彼らがいたから。
 彼らの誰かが話を始めると、たちまちそこは物語の世界になった。テツさんと呼ばれていた年老いた男性は、中国の古い時代の人々の話がとても上手だった。わたしは昔の中国のこともいまの中国のことも知らなかったけれど、お話を聞いていれば、昔の中国の市場の雑踏の賑わいや、酒場での喧嘩の様子、権力者たちの駆け引きなどがありありと目に浮かんだ。テツさんは家に棲む不思議な生き物についてのちょっとこわい話も上手だった。怯えながら話を聞くわたしを見て、シェリーと呼ばれていた女性がテツさんをたしなめていたことも思い出す。

 シェリーさんは、本当はノリコさんというのだけれど、みんなにシェリーと呼ばれて一目を置かれていた。たぶんお話がとても上手だったからではないかと思う。彼らはお話をすることを仕事にしていたからだ。もっとも、わたしが彼らと暮らした子ども時代、彼らはその、お話の仕事をできなくなっていた。わたしが生まれるよりずっと前には、彼らはみんな世界中を飛び回って、世界中の人々にお話を聞かせていたらしい。

 彼らの中で一番若かったトオルさんが聞かせてくれただけでも、イラク、コンゴ、南オセチア、チェチェン、スペインなどの国でいろいろなお話をしてきたらしい。トオルさんは自分が訪れた国の風景や、人々の親切さ、食べ物のおいしさの話をしてくれたので、わたしは自分も遠い国を旅しているような気持になった。旅先でスリにあったり、食べ物が合わなくてお腹をこわしたり、なんて話も胸がドキドキするくらい夢中で聞いた。

 でも、トオルさんがときどき興奮して、世界が我々を必要としていたんだ!と熱心に話し始めるとテツさんや、アオイさんがニコニコしながら、およしなさい、マチコがびっくりしてるじゃないかとなだめたものだ。確かにかつて世界は我々を必要としていたかもしれないけれど、いまは我々にうろちょろしてほしくないと思っている。いま我々はマチコちゃんにお店に行ってもらわなければろくに食事だってできない状態だ。大事にされた時期もあるが、いまはこの通り邪険にされている。イッテコイ。プラマイゼロ。それを受け入れなくては。

 だけど!とトオルさんは悔しそうに言いかけてやめる。トオルさんはテツさんやシェリーさんやアオイさんや、無口なゲンさんや、“魔術師”と呼ばれていたハラさんのことを本当に尊敬していたからだ。トオルさんは時々こっそりわたしに彼らがどんなにすごい語り手なのかについて聞かせてくれた。世界各国の紛争地を訪れ、時には独裁者に会い、時には要人の中の何人かに会い、時にはその国の議会で演説し、彼らをお話に夢中にさせたそうだ。ナレーターは政治家でも外交官でもないので、ただ面白い話をするだけなのに、多くの場合、一触即発の状態にあった紛争は小康状態に戻るのだという。

 ナレーター・システムは世界的に評価されていたんだ。理詰めでもなく、感情論でもなく、もちろん武力や威圧や脅迫でもなく、紛争を実質的に緩和させる解決策としてね! そしてトオルさんの先輩たちがどこの国でどんな活躍をして来たのか、熱心に、しかしこっそりと聞かせてくれた。いまでもわたしはその時のトオルさんの目を覚えている。トオルさんはテツさんやシェリーさんをはじめ、いまはここにはいない人たちも含めて、先輩の語り手たちを本当に尊敬していて、自分はともかくその語り手たちがいま、こうして不遇の環境にあることを心から悔しがっていたのだ。子どものわたしにもそれがすごくよく、くっきりとわかった。

 ある晩、みんなが集まっているとき、それは始まった。きっかけはわたしのひと言だった。みんな、いつからそんなにお話が上手だったの? いつから? 珍しくゲンさんが口を開き、“魔術師”のハラさんが、最初の仕事、ナレーター・システムに採用された時、人生で初めて自分が語り手だと気づいた時、いろいろあるが、さあどれが面白いだろう、と言った。

 初めてのこと、ね。うっとりとした口調でシェリーさんが言い、そうだ、それだとテツさんが応じて、その話が始まったんだ。当代随一の語り手たちが、自分が語り手だと悟った初めてについて、目もくらむようなお話が始まったんだ。この本は、そのときわたしが聞いたお話の本だ。

(「初めてのこと」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 来[3]2009/08/10 08:59:33

 部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。
「おうっ! どうでい、調子は!」
「さっきまでは良かった」
「いまはどうした!」
「おまえが来たから調子が狂った」
「ぁに言ってやぁんでい。こちとら約束だから来てんじゃねえか」
「何だよ約束って」
「あれだよあれ、あのからっきし何だったべらぼうな何のあれが」
「まあ落ち着きねえ。そんな砂をまき散らされちゃ、せっかく片付けた部屋が台無しだ。まあ水でも飲んで」
「水?」
「ああ水だ」
「水があるのかい?」
「なけりゃあ出さねえよ」
「まいったねこりゃ、へへっ! 水をいただけるんでげすかっときたもんだ」
「そんなタイコモチみたいにならなくても水くらいちゃんと出すよ。ほらちょっとだけど大事に飲みな」
「お、こりゃあ何とも、水のように透き通ってらあ」
「まあ、水だからね」
「たはっ。聞いたかい? 揺らしたら、たぷん、なんて言いやがる」
「そうかい?」
「ほら、たぷん! な、たぷん! おおおっと、いけねえ。危ねえ危ねえ。あやうくこぼしっちまうところだったよ。ぜんてえ、水ってえものは古来、覆水盆に……」
「能書きはいいから早く飲みなよ」
「んじゃあ、遠慮なくいただくよ。んぐっんぐっんぐっんぐ」
「噺家が酒を飲んでるみたいな飲み方をしやがる」
「ぷはあ〜っ。うまいね。こんな純度の高い上物のブツはなかなかお目にかかれねえ」
「おいおい人聞きの悪いことを言わないでくれよ。いま世間じゃそういうの、何かとうるさいんだから」
「安心しろ。尿検査は絶対に断るから」
「だからそういうことを言うんじゃないよ。で、何なんだい、そんな泡食って駆けつけて来て」
「おう、それだ! まあ聞きねえ。こないだ湯島砂丘で見つけたあのケッタイな入れ物覚えてるか」
「うん。薄気味悪いものがいろいろ詰まっていたって」
「おうよ、おれぁホントに驚いたんだが、あれがおめえさんの言ったとおり、やっぱり生き物らしいんだ」
「生き物? 本当に? あれが? 歩き回りでもしたか?」
「冗談じゃねえ。あんなのがうろちょろし始めたらおれぁおっかなくってこうやって外に出てくることもできゃしない」
「じゃあどうして生き物ってわかった?」
「それがさ。あいつら水を吸って育つらしいんだ」
「贅沢なやつだね」
「うちの研究所はほら、金さえかければ水はつくれるからってんで、あいつらにくれてやったんだ。そうしたらどうなったと思う?」
「お礼を言った」
「しゃべらねえよ! あいつらはしゃべらねえよ。人間じゃねえんだから。っつーか、こっちはあれが生き物だってだけで驚いてるんだ。しゃべったらまずそこから話すだろうが」
「じゃあ降参だ」
「大きくなるんだ」
「予想もできなかったな。水を吸って育つって聞いてなければ」
「るせーな。聞いて驚くな。あいつら空気中から炭素を取り込んで大きくなりやがるんだ」
「またまた」
「冗談じゃねえって。どうやってんのかはわからねえが、空気中の二酸化炭素を取り込んで、中でばらして炭素を身体に組み込んで大きくなって、残った酸素を吐き出しているらしい」
「なんだって? 酸素を自力で創り出しているってのか?」
「おうよ」
「んなバカな話があるもんか。そんなものがあったら、おれたちの科学なんていらなくなっちまうじゃねえか」
「間違いない。炭素を取り込んで、酸素を出している」
「信じられんな。どのくらいの勢いで大きくなるんだ?」
「大したことはない。でもなんだか薄気味悪いひらひらした緑色のものをどんどん増殖させているのが気になる」
「緑ってどんな色だ?」
「そうさな、おまえの家なら寝室の壁の色をもうちょっと濃くすると緑だ」
「自然界じゃ見かけない色だな」
「薄気味悪いよ、まったく」
「で、どうする?」
「だから持って来たよ」
「なにをっ?」
「ほら約束だからよ。おまえにやるよ。ほら。この入れ物ごとくれてやる」
「やめろ。悪い病気にでもなったらどうしてくれる」
「えんがちょ切った!」
「んのやろ! 待て! 何しやがんでい、こんな薄気味悪いもの!」

     *     *     *

「おじいちゃん、ひょっとしてそれ」
「ああ、そうだよ。これさ。立派に成長して日陰をつくってくれている」
「おじいちゃんが若い頃には木がなかったの?」
「なかった。こいつが空気中の炭素を溜め込んで、酸素を吐き出してくれて、仲間を増やして、それからだんだん緑色のものが増えだしたんだよ」
「信じられないなあ。で、結局それが入ってた入れ物って何だったの?」
「古代文明の遺物さ。文書も同梱されていてな、判読できた文章にはこうあった。『子孫へ。これに水をやって日の光に当てろ。快適な環境を約束する。』」
「昔の宗教かなにかなのね」孫娘は細かい剛毛に覆われた肢を4本使って、木の葉をかき分けながら言った。「でもわたしたちには酸素が多過ぎるわ」
「まったくだ」8本肢の祖父は複数の目をキラキラさせながら言った。「よくまあ悪い病気にならずに生きて来れたと思うよ。良かったことと言ったらうまい虫が増えたことくらいかな」

(「約束」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 楚2009/08/01 21:55:12

 「楚々とした」と聞くとなぜか幼い頃の情景を思い出す。
 夏休み。田舎のおばあちゃんの家。味が濃くて量が多過ぎる晩ご飯を食べ終わるとおじさんが用意していた花火を出してくれる。ぼくらは暗くなった庭に飛び出し、恐る恐るマッチを使う。勢い良く吹き出した花火にびっくりしていたら、一つ上年の従姉の笑い声がする。見上げると従姉は浴衣を着て花火の光を下から浴びて、昼間見るのとは全然違って見える。その時の彼女の顔を思い出す。いや。その時の庭の闇と、花火と、見えたような気がする螢の光と、白く浮かびあがる彼女の微笑み。遠い夏の日の思い出の中の美。

     *     *     *

 「楚々としたなんて言葉、聞いたことがないなあ」タケが横から覗き込んで言った。「それ、かわいいってこと? 紹介しろよ、従姉妹」
 「読んでんじゃねーよ」トオルはそれほどいやそうでもなく紙をしまった。「これは創作」
 「とかいって、いまでも好きなんじゃねーの?」
 「おれには田舎もねーし、従姉妹もいねーの」

 グラウンドから野球部がランニングに合わせて、「せ!」とか「えい!」とかいうかけ声が聞こえてくる。放課後の教室。期末考査も終わって夏休み直前の天国の日々。今日返って来たいまいましいテストの答案用紙さえなければ、という注釈つき話だが、それでもまあ天国の日々。授業もないし、テストも当分ない。夏はこれからだし、ミンミンゼミも鳴きはじめた。

 「それ、どうすんの?」
 「それって?」
 「その、ソーサク」
 「ああ」トオルはカバンに目をやり、タケに向かって笑った。「わかんね。急に思いついて書いた」
 「なんだそれ。イタコかよおまえ」
 「イタコじゃねーよ」トオルは笑い、窓の外のグラウンドを眺める。「あーあ、あいつ」
 「どした?」
 「ほれ、ランニング。ハギワラ見てみ」
 「ハギワラがどした?」
 「また所定のポジションだ」
 「所定のポジション?」
 「そ。ビリ」

     *     *     *

 そのときハギワラはランニングとは関係ないことで悩んでいた。さっきから頭の中をある音楽がグルグルと回り続け、逃れられなくなっていたのだ。しかもそれはランニングのペースとは全く関係のない音楽だった。スポーツ刈りの頭からは汗がたらたら流れ落ち、顎を伝ってぽたぽたと落ちて行く。蝉の声がやかましく近づいたり遠のいたりするのは、自分たちが近づいたり遠ざかったりしているせいだ。

 他の部員のペースについて行けずどんどん遅れてしまうのはいつものことだ。それにしても今日はひどい。頭の中で鳴り響く音楽のせいで足のリズムも乱れ、しかも時々自分がどこを走っているのかわからなくなる。くそ。あのオペラ親父め。ハギワラは胸の内で父親に向かって毒づく。日曜日ごとにがんがんがんがんオペラをかけやがって。おれの足が遅いのは親父のせいだ。オペラなんか聞かされて育ったせいだ。

 頭の中でオペラが鳴り続けることだけならまだよかった。ハギワラはさらなる苦しみを味わっていた。何だっけこの曲。この曲のタイトル、何だっけ? そう。ハギワラは知っているはずのその曲の曲名を思い出せないことにも苦しんでいたのだ。意識がだんだんもうろうとなって来て、ますます正解は遠のいて行く。ロッシーニだ。急にそう思う。いやモーツァルト。ちがうちがう。モーツァルトのはもっと別な。フィガロの結婚! だからそれはモーツァルトで。

 「ハギワラ!」
 どこかで誰かが叫んだ。空が大きく回り込み、一瞬にして暗闇が押し寄せて来た。蝉の声が一定になった。理髪師だよ、と誰かが囁いた。どこに? どこにじゃねーよ。理髪師だってば。ああ。ハギワラは遠のく意識の中でやっと正解にたどりついた。
 「理髪師だ」
 「ハギワラ! 大丈夫か。しっかりしろ!ハギワラ!いま水を持ってくるから」
 「理髪師だよ、セビリヤ」

     *     *     *

 萩原教授の元に息子が倒れたと言う連絡が入ったのは講義の終盤だった。講義は幾何学的錯視に関するものだった。実際には一直線の線分が、平行線によって中断されることでずれているように見えるポッゲンドルフ錯視。同じ長さの3本の線分が、遠近法を思わせる2本の直線にはさまれることで長さが異なって感じられるポンゾ錯視。どのようにしてそれが起こるのかを簡単に説明し、まず学生達にそれを体験してもらおうという実験にとりかかろうとしていた。

 「こういう図形はみんなよく知っていると思う」萩原教授はプロジェクターを操作しながら言った。「矢印が外側に向いているのと、線分を両端から内側に挟み込んで見えるもの。こういう錯視のこと、何て言うか知ってるか? 藤枝君」
 「ミューラー・リヤー錯視です」
 藤枝と呼ばれた女子学生は即答した。
 「ご名答」満足げにうなずくと萩原教授は教室を見回した。「だから結論はみんな知っている。ひっかかるまいとすることもできる。そういう警戒心たっぷりな諸君にやってもらうことこそが醍醐味なんだな」

 藤枝小夜子はその実験を体験済みだった。萩原教授は小夜子にいろいろな実験をさせたがったからだ。それが何を意味するのか小夜子にはよくわからなかった。教授が小夜子のことを本当に好きだからなのか、身体だけが目的ではないことを示そうというパフォーマンスなのか、それともただ本当に心理学が大好きだからなのか。考えてもわからないことだから考えないことにしている。

 小夜子は固定された内向図形を見ながら、線分の長さを自由に変えられる外向図形を調節し、同じ長さだと思ったところで止めて計測する。長くなるに決まっている。そういうものだからだ。誰かが誰かを騙しているわけではない。でも心でこうだと思うことと、実際の間にはズレが生じてしまうのだ。錯視を利用して誰かを騙すことはできるかもしれない。けれど錯視そのものは誰の身にも起こる単なる現象に過ぎない。

 「萩原先生」前方のドアが開き、事務長が駆け込んできて、萩原教授の言葉を途中で止まった。「先生、息子さんの学校から連絡がありまして」
 それを聞いて小夜子の中で何かがふくれあがり始める。小夜子の心の中で警報が鳴り渡る。入って来てはならないものが入って来たのだ。教授とわたしの世界にそんなものはいない。そんなものはいらない。

 いつもは大人しい真面目な藤枝小夜子が、大きな声を出して立ち上がったので、教室内は騒然となる。両腕を振り回しぶざまに暴れはじめた小夜子を男子学生が数人掛かりでとりおさえ、小夜子が泡を吹きはじめたので救急車が呼ばれた。小夜子が何かをうわごとにように呟いているので、何人かが聞き取ろうとしたが、はっきりとはわからなかった。後になってその話を聞かされた萩原教授だけがそれが何だったのかがわかった。自分の講義が中断された時に最後にしゃべっていた言葉だった。けれども小夜子がそれを繰り返すということが何を意味するのか、教授にはわからなかった。「つまりここで見られるのはポンゾ及びリヤー」

     *     *     *

 タケの順番が回って来てキューにチョークをつけているところで、トオルから電話がかかって来た。いつもは冷静なトオルがひどく興奮していて何を言っているのかよくわからない。イメージどおりだったとか、ちょっと違う気もしたとか、偶然が重なってとか、話があっちこっちに行ってさっぱり要領を得ない。何度も聞き直してようやく、トオルに従姉がいたらしいということだけわかった。

「従姉なんていねーって言ってたじゃん」
「だからいたんだよ」
「なんで」
「従姉がいるのになんでもねーだろ」
「ちげーよ。なんでわかったのって」
「おふくろがさ、親戚に言われて病院に見舞いに行ったわけ」
「はあ?」
「うち帰ったらおふくろいなくてよ」
「はあ」
「小夜子さんが入院したそうなのでお見舞いに行きますとか書いてあるわけ」
「はあ?」
「で、急にピンと来ておれ、病院行ったわけさ」
「はあ」
「それが従姉だったわけ」
「はあ」
「そしたらそこにハギワラも入院しててさ」
「はあ」
「すげーだろ」
「全然わかんねーんだけど」
「もういいよ」
「っつーか、何それ。全然わかんねー。何かすげー腹立つ」
「わりぃわりぃ」
「じゃ、あれ、ソーサクじゃなかったの?」
「わかんね」
「んだよ、それ。この電話。何?」
「またちゃんと説明するわ。いま何してた?」
「え、おれ? ビリヤード」

(「ビリヤード」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 来[2]2009/07/27 07:05:41

 部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。
 ピンポンピンポーンっと、これも景気よくドアフォンが鳴って、出たらやっぱり悠宇那だった。
「コンニッター!」
「コンニッター!」
「セレソンしてるー? セーラ」
「ユノユノ、相変わらず景気いいねー」
「好景気!」

 ユノユノは悠宇那の、セーラはわたしのSN。セレソンネーム。セレソンってさ、サッカーとかの代表だと思うじゃない? でもリオーナが、璃苑がほんとうは選ばれし者って意味だって教えてくれて、セレブよりカワイイし、わたしたちはセレソンになるんだっていうから決定! 璃苑はわたしのこと、聖良はもともとセーラだから世界に通用する名前でいいなって言って、璃苑はリオンだからリオーナって決めてセレソンネームが始まった。リオンだってそのままでも外人っぽいって思うんだけど、リオーナ頭いいし、リオーナの方がいいんだと思う。

 ユウナもそのままでもゲームキャラみたいで世界で通用するよって言ったんだけど、ユノユノにしちゃって、それってぜんぜんコクナイセンって感じなんですけどって言っても、もう決めたってことでwithoutビク。びくともしませんでしたとさ。

 My SpaceとFacebookにアーティストっぽいページを作ってくれたのはユノユノだ。ユノユノはほんと天才なんじゃないかと思う。mixiにひとりずつコミュニティをつくろうって思いついたのもユノユノだった。書くのはあんたにまかせたからね、セーラ。まかせなさい。わたしは書くのは大好きだから。2人がTwitterにつぶやいたこととか適当に拾って3人分のセレソン日記を書いた。

 コミュニティにわたしたちしかいない間は超ウケた話とか、犬の糞の写真とか、バカばっかり書いてて楽しかったんだけど、気がついたら知らない人がどんどん増えて来て、それもわたしたちのこと芸能人だと思ってるっぽいからおかしくてしかたなかった。ある日何の気なしにリオーナのコミュニティで「セレソンは芸能人じゃないのよ」なんて書いたら、急に大騒ぎが起こったんだ。

 セレソンとは何か?というトピが立ち上がって、ちょうど映画でセレソンって言葉の出てくる映画があったせいで、そっち関係の人たちも出入りしはじめて、そっちのセレソンのことはわたしたしぜんぜん知らなかったからわけがわからないうちに、わたしたちのコミュニティが映画の宣伝じゃないかとか言われたり、映画がわたしたちをモデルにつくられたんじゃないかって言われたり、知らないところでどんどん話が大きくなっていて、そんなこと知らないからわたしが毎日バカ日記書いてたら、映画の宣伝にしてはリアルな女の子っぽいとか言われて知らないうちにメンバーがもうすぐ5000人になりそうになっていた。

「ねえ、これってもう有名人の仲間入りなんじゃない?」
「古田新太で8000人いってないのよ」
「どうしてどこで古田新太が出てくんのよ」
「いいじゃない。好きなんだから」
「5000人超えたらパーティーやろうか」
「やろうやろう。セーラんちでやろう」
「どうしてうちなのよ」
「いいじゃない。好きなんだから」

 ユノユノが来て、ワインをあけて、2人でサラダをつくったりしてたらリオーナも来て、冷蔵庫からわたしがつくったイカ刺しのユッケと大根をパスタみたいに使ったカルボナーラを出して乾杯した。パソコンを立ち上げてmixiのみんなのコミュニティを見ようとしたら、わたしあてにメッセージが届いていた。「何か来てるよ」リオーナがめざとく見つけた。さっそくチェックしたら送り主はコミュニティによく書き込んでいるhirotaという男の子で、タイトルは「伝言です」となっていて、「ぼくのところにこの写真が送られてきました。セーラさん宛てに送ってくれと言われたので送ります。これ、セーラさんに何か関係があるんですか?」と書かれていた。

 メッセージの本文中のURLを叩くと大きな写真が表示された。望遠レンズでマンションの廊下を外から撮ったもので、一軒のドアが開いている。訪ねて来たのも年取った女で、中から迎えに出てきている2人も年取った女たちだ。中から出てきた女のひとりは派手な紫に髪を染めてショッキングピンクとグリーンがどぎついワンピースを着ている。わたしだ。

 リオーナもユノユノも黙って写真を見つめていた。
「いやあね」わたしは仕方なく口を開いた。「どういうつもりかしら」
「セレソン、もうおしまい?」ユノユノがさびしそうにつぶやいた。「My Space用に曲も作ったのに」
「ばかね」リオーナが80歳とは思えない張りのある声で言った。「やっとセレソンの活動開始よ。こいつをつかまえましょう」
「探偵をするの?」
「チャーリーズ・エンジェルみたい!」
「わたし、ファラ・フォーセット!」
「ユノユノ、年がばれるわよ」

 やれやれ。わたしは心の中で両手を広げる。これで終わりになるかと思ったのに。写真を撮ってくれた妹に迷惑がかからないようにしなくちゃ。でもまあこれで3人が楽しく過ごせるならそれでもいいか。わたしはただ、毎日3人分の日記を書くのが面倒になっただけなんだけど、しばらくネタには困らなさそうだし。

(「伝言」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 条2009/07/24 10:52:56

 とおくから白い幕が近づいたと思ったら、何千条もの雨になった。虫取りをしていた子どもたちがいっさんに駆け出すがたちまち夕立ちにつかまってしまう。風が強まり、たとえ傘をさしていても横なぐりに大粒の雨が当たる。バケツをひっくり返したような、とよく言うが、これは風呂桶をひっくり返したようなと言えばいいか、明神池をひっくり返したようなと言えばいいか、常軌を逸した雨だった。

 目を凝らせばしぶき飛び散る視界のずっと向こう、大牟田山のあたりには青空が見え、むくむくとまっ白な入道雲が上へ上へと伸びている。こっちは夕暮れかと思うほどに暗くなっているのに、あっちは夏の昼の光が勢い良く跳ね回っている。金森がそれを指差し何か言うがさっぱり聞こえない。西倉が笑い出す。おれも笑い出す。頭のてっぺんから足の先までずぶぬれだ。お互いの顔もよく見えない。声も聞き取れない。でもあっちには鮮やかな青天がある。笑うしかない。

 それでもこりずに金森が何か言おうとしているので、こっちも何だって?と怒鳴るようにしながら耳を近づけた。自分で喋った声も聞こえやしない。バス停のベンチに座ったまま全身濡れ鼠のおれたりのまわりは雨音で騒然としている。びしゃびしゃびしゃとたたきつけるような雨音がベンチの座面からも、足元からも、バス道からも、目の前の田んぼからも立ち上がり、沸き立っている。どこかの家のトタン屋根を打ち付ける音は激しいドラムソロみたいだ。え? え? と何度も聞き返すうち、いきなり眩しいような光がして、間髪入れず、ばーんと轟音が炸裂した。雷だ。おれたちは三人とも大笑いしてベンチの上でひっくり返りそうになった。

 前触れもなく始まった夕立ちは、これまた突然やんだ。びしゃびしゃびしゃびしゃっ! と言ったかと思うともう後はなし。一切なし。遠ざかる雨のカーテンも、徐々に遠ざかる音もなし。自分の耳が聞こえなくなってしまったのかと思うほどの静寂。不安になる前にまず日が差し、すぐさま蝉が鳴き始める。何事もなかったかのように。おれたちが濡れ鼠のままなことと、あたり一面水浸しなのを除くと、雨なんてどこにありましたっけ、てなもんだ。

 西倉が、もうすぐバスが来ると言い、金森はバッグをかついだ。本当はおれは金森を引き止めに来ていたのだが、もうどうでもよくなっていた。でも夕立ちが来るまで熱弁を振るっていたこともあり、何を言っていいかわからなかった。何を言おうか考えていたらさっきのことを思い出して聞いてみた。

「さっき、何を言おうとしちょったん」
「あれさ」金森はさっき指差していた大牟田山をもう一度指差した。「おめ、ガキんころ、あれ、何ち呼んじょったか、つて聞きおった」
「ああ」それはおれたちが三人組を結成するきっかけになった山だった。ガキの頃からこれまで続いた三人組の、その最初の最初があの山だった。おれがあの山にあだ名をつけ、それを面白がった金森と西倉が山や川や家や森やいろいろなものに名前をつけ、おれたちだけの地図をつくったんだ。「忘りょったか。しょうないやっちゃな」

 その時おれたち三人の真ん中に、空から何かが落ちてきた。おれたちはびっくりして、わ!とか、を!とか、思い思いに叫んで飛びすさった。それはがらんごろごろと派手に音を立てて転がり、やがて止まった。やかんだった。最初からへこんでいたのか、落ちた衝撃でへこんだのか、ぶさいくにゆがんだアルマイトのやかんだった。ラグビー部が命の水とか呼んでありがたがりそうなやかんだった。

「こわれたやかんや」金森が口を開いた。「そうや、こわれたやかんや」
 そう。それが、山につけたおれのあだ名だった。おれたちは茫然とやかんを眺めていたが、不意にべらぼうにおかしくなって来て、三人で腹が痛くなるくらいまでげらげらと笑った。
 バスが来て、金森が乗る時も、おれたちは笑いが止まらず、別れの言葉を言うどころではなく、とにかく手を振って挨拶をした。湿っぽいことを言わずにすんで、良かったと思う。バスが走り去ってしばらくも西倉とおれは笑い続けていた。それから先に冷静になった西倉がようやくしゃべった。

「で、どうするこれ」
 おれはかがんでやかんを拾い上げ、蓋をちゃんとのせてやり、バス停のベンチにきちんと置くと、真面目な声で言った。
「次の夕立ちでどっかいくんやろ。次のに乗って」

(「こわれたやかん」ordered by たいとう-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

◇ 来2009/07/23 21:12:01

 部屋を片付けてさっぱりしたら、景気のいい声が近づいて来た。
「えっほ、えっほ、えっほ、えっほ」
「さあ、来た来た」
「聞こえて来たぞ」
「グルファンなの? 本当にグルファンなの?」
「ああそうだよ。いい子にしているんだよ」

 期待と不安でいっぱいの子どもたちがわけのわからぬ叫び声を上げる。グルファンのことは昔話で聞いたり、絵本で読んだりしていたものの、それはあくまで「悪魔」や「妖精」と同じく、お話の中の存在に過ぎなかったからだ。12年に1度、本物のグルファンが現れると言われても全然本当のこととは思えなかったに違いない。あるいはクリスマスのサンタクロースのようなものをイメージしていたかもしれない。
「えっほえっほえっほえっほ」
 だんだん近づいてくるかけ声は、それが架空の存在ではないことを示している。

「近づいて来たか」
「もうじきだ。すぐに来る」
「はかっていたようなタイミングだな」
 朝から集会所では近所の住人が総出で片付けをやっていた。12年ぶりのグルファンが気持よく過ごして、次もまた来てくれるように、心をこめて掃除をした。大人も子どもも一緒になって集会所を隅から隅まで磨き上げた。
「えっほえっほえっほえっほ」
 もう、すぐそこまで来ているくらいはっきりと聞こえるのに、声はまだまだどんどん大きくなっている。

「やだやだやだおうちに帰る」
「大丈夫だって、お父さんもお母さんもここにいるから」
 いよいよ本当に来たと聞かされて軽いパニックを起こしたのか、急にぐずり始める子どももいる。なだめている若い親たちの中には不安げに身を寄せ合い、子どもを抱きしめるものもいる。年寄りたちはそんな若い家族を温かい目で見守っている。

 小さな子どもたちは濡らした新聞紙をまき散らしたり、こびりついた汚れを濡らしてふやかす方法を教わったりして、細かい塵やホコリや汚れを取り除くことを覚えた。少し大きな子たちは掃き掃除と雑巾がけを徹底的に仕込まれ、身体が大きな子どもたちは高い場所の明かりや窓ふきなどに駆り出された。子どもたちの掃除を監督する大人たち以外は、男たちは建物の修繕や荷物運びをし、女たちは料理や飾り付けにかかり切りだった。12年に1度のグルファン迎えは子どもたちの躾の場でもあるのだ。

 どんどん高まる一方で、耳が痛いほどの大音量で近づいていたかけ声が、不意にやんだかと思うとがらがらと大扉が開き、グルファンが飛び込んで来た。丸めた背が大扉の上部にかすりそうなくらい大きい。全体はとんでもなく大きなコガネムシが後ろの2本の脚で立ち上がったような形をしている。これは昔話の中でもよくそのようにたとえられるのだが、本当に良く似ている。背中を覆った堅い鎧のような表皮も鈍く金属質に光っている。

 巨大な目玉は左右に突出し、長い舌がベロベロと鋭い歯の間から垂れ、よだれが床にしたたり落ちる。そのよだれは血が混じっているように赤い。子どもたちはあまりの恐ろしさに絶叫して逃げ惑う。親は押さえ込もうとするのだが、子どもたちの恐怖は想像以上に大きく、親の手を逃れ、とにかくどこか部屋の隅に隠れようとする。子どもが自分の手を離れたとなると親も不安になるらしく、もうさきほどまでのように落ち着いたふりはしていられない。

「迎えの者には会いませんでしたか?」
 係の者が尋ねるが、グルファンはそれには応えず、ふんふん、ふんふんと鼻を鳴らしている。
「お荷物はどこかいの?」グルファンが言う。低く轟くような声なのにキンキンと耳障りな雑音が混じっている。部屋の隅から子どもたちの悲鳴が湧き起こる。「早よ出さんとえらいこっちゃで」

「まあまあ、お神酒でもお飲みなさい」
 もう何度もグルファンを迎えたことのある長老がなみなみと酒をついだ器を持って近づく。せかせかと慌ただしげなグルファンをそうやってなだめるのだと昔話にも語り継がれている。その途端にグルファンが激しく頭を振り、長老が横なぎにされ宙を飛ばされてしまう。ぐげ、と妙な声を立てて長老は料理を用意したテーブルに激突し、動かなくなった。

 大人たちは騒然となった。さっきまでぐずぐず言っていた子どもたちはもはや恐怖のあまり声も出せない。
「なあ、お荷物はどこかいの?」グルファンが言った。「さっきのがお荷物か」
 言うが早いかグルファンは飛び上がり、倒れたままの長老の上に馬乗りになった。巨大なコガネムシの下敷になって長老の姿が見えなくなると、何人かの大人たちがあわててグルファンに駆け寄り、引きはがそうとしたが、その時、ごきっ、ぐちゃ、ごりごりという嫌な音がして、グルファンが何かを噛み砕く音が続いた。

 部屋のあちこちで嘔吐する音が聞こえた。
 突然グルファンの堅く丸い背中がブルブルっと激しく震え、グルファンを引きはがそうと手をかけていた大人たちが4人、てんでな方向にはじき飛ばされ、一人は壁に激しく頭を打ち付け、鼻血を流しながらへたりこんだ。

「どうしたんだ」何度もグルファンを迎えて来た大人たちがあたふたと騒ぐ。「グルファンはどうしてしまったんだ」
「ちゃうやんけ」たったいままで長老の上に屈み込んでいたグルファンが振り向きざまに言い放つ。「これ、お荷物ちゃうやん。長老やんか」
「お願いですグルファン、お荷物ならここにありますから」
 大きな荷を両手で抱えて喋りはじめた男に向かって、グルファンが口から何かを吹き飛ばす。それは人間の手の形をしたもので、それを見てまた何人かがげえげえと吐き始める。

「かったいわ、それ。ものごっつ固いわ」グルファンは長老の手のことをそう評した。「こんなんちゃうねんお荷物は」
「ですからお荷物はここに」
「もっとやらかいのがええわ」
「やらかいって?」
「長老とちごて、もっとやらかいのやったら食えると思うわ」
「グルファン!」
「やかましわ」
 グルファンは首を振って男をなぎ倒すと叫んだ。
「こどもや。ちっこいこどもを寄越せ。それで勘弁したる」
 小さな子どもを持つ親たちはみな立ち上がり、一斉に子どもたちの方に駆け寄る。
「ぐじゃぐじゃうるさいねん」グルファンは不意に背中の鎧を広げ振るわせはじめた。羽根だったのだ。そして狭い集会所の中で浮かびあがり、部屋の隅に隠れる子どもたちめがけて飛びかかった。「どこや。お荷物はどこや。お荷物寄越さんかい」

 子どもたちのつんざくような絶叫が響き、グルファンの羽音と共にすさまじい騒音をなす。子どもたちのほとんどは失神し、小便を垂れ流す。その時一人の少女が立ち上がり、食卓の豆をつかみグルファンに投げつけた。最初グルファンはそれに気づかなかったが、何度か豆をぶつけられ、ゆっくり少女の方に向かって旋回した。その瞬間、少女の投げた豆はグルファンの腹部に命中し、とたんにグルファンの羽根は動きをやめ、落下した。

「あかんてあかんて」グルファンは地べたに丸くなってしっかり羽根を閉じた。「あかんてあかんて豆はあかんて!」
 まなじりを決した少女は勇敢にもグルファンに歩み寄り、幾度も幾度も豆をぶつけ続ける。
「堪忍して!堪忍してえな!」グルファンはのたうつ。「どないなっとんねん。なんでこんな乱暴すんねん」
 少女はただ黙って豆を打ち付け続ける。少女が机に豆を取りに戻った隙にグルファンはちょこまかと駆け出し、大扉から外に飛び出していった。少女はそのまま豆をつかんで外まで追い、離陸したばかりのグルファンめがけて投げかけた。グルファンは中空でバランスを失い、ずっこけながらも命からがらという感じで飛び去った。

 こうして12年に1度のグルファン迎えの儀式は終わった。大人たちは再び集会所を片付け、つくりものの反吐をふき取り、名演技をした長老を讃え、そして何よりも勇敢だった少女を賞賛した。グルファンに入っていたのは3人の“迎えの者”だった。いつもの通りのいつもの儀式。こうすれば子どもたちは決してお荷物にならないようになる。お荷物とだけは思われないように頑張って育つ。そういう風習なのだ。

 幾度も繰り返された儀式。襲われる長老。あたふたする大人。お荷物を探し求めるグルファン。その時々にあれこれ手を加え工夫をしてグルファン迎えを盛り上げる。少しずつ過激になる傾向はあったが、だいたいは笑い話で済んだ。けれどもこの年はやり過ぎた。子どもたちは深いトラウマを負った。確かに彼らは長じてお荷物にならないように努力をしたが、それは自発的な努力と言うよりは強迫観念と呼んだ方がよさそうだった。そして村の指導者となることを期待された少女が成人する頃になって、あの年のグルファン迎えがやり過ぎだったことが判明するのだが、まだその時は来ない。

(「荷物」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

お題受け付けます!2009/07/21 23:42:27

お気づきの方もおられると思いますが、ただいま
「スペシャル版Sudden Fiction Project」を展開中。
7/30までリコー本社2階のショールーム
「プリンティングイノベーションセンター」で開催中の
“木から生まれた「絵」と「ことば」展”に出展している
15の作品を、みなさんからいただいた「お題」と組み合わせて
連日のように作品をアップしようと言う試みです。

コメントは承認後の掲載なので(しっかりしてくれアサブロ!アダルトだらけだぞ!)、
書き込んでもすぐに表示されませんが、ちょこちょこチェックしますので、
どうぞ気長にお付き合いください。Sudde Fictionは頑張ってできるだけはやくアップします。

一見(いちげん)さんも大歓迎。どしどしご参加ください。

◇ 梵2009/07/20 17:31:01

 ボン。ブラフマン。ビッグ・バン。宇宙のはじまりの音が聴こえるか。
 それが宇宙飛行士マイク・スペンサー(通称ミック)の最期の言葉である。ミックはルナ・ステーションの船外活動中に、恐らく微小なデブリ(宇宙塵)との接触が原因と見られる移動装置の故障に見舞われ、救出活動も虚しくみなの見守る中、徐々に遠ざかり宇宙空間の闇に吸い込まれていった。

 ミックは剽軽な男だった。いつでも軽口を叩いたり、ちょっとしたいたずらを仕掛けたりしてみんなを笑わせていた。遠ざかりながらもミックはのべつまくなしにいろいろとまくしたてていたので、こういうのは不謹慎かもしれないが、我々の別れは実になごやかであたたかいものだったと言うこともできる。ミックの相手をしていたのは主に通信士のベッキーだったが、彼女は日頃からミックと特に仲がよくいつも冗談を飛ばし合っていた。

「オーケー、みんな。そう大騒ぎするな」一切の救助活動が無駄に終わり、ただ見守るだけとなった時にミックはまず言った。「いや、違うか。ミヤケが一人で喋ってるのかな」
 ミヤケは学生時代に応援団に所属していたとかでやたら声の大きい日本人だ。
「違うわミック」ベッキーはすかさず切り返した。「いまイチローがランニングホームランを決めたのよ。ごめんねテレビを切るわ」

 もちろんテレビもついていなければ、ベースボールの試合なんか知ったことではない。それどころかコントロールルームは、その時にはもう静まり返っていた。ついさっきまで喉をからすほど叫んで、次から次に指示が飛び交っていたのが嘘のようだ。全員が遠ざかりつつあるミックを見守り、喋るべき何も思いつかなかったからだ。誰かが何かを言おうとして、咳き込み、言葉を続けられなかった。胸が詰まって言葉にならないからだ。そういうときもベッキーは空気をほぐすように落ち着いた口調で話をする。

「ミック、そこから何が見える? あなた何かすごい景色を独り占めしてるんじゃないの?」
「ベッキー」ミックがため息をつく。「ぼくはいまちょうどアイスクリーム・パーラーでミントチョコを買うところだったんだぜ。おっといけない。眠ってしまっていたみたいだ。起こしてくれてありがとう! ええと何だって? ここから何が見えるか、だって?」

 そして、それからしばらくミックの実況中継が続く。ルナ・ステーションにいても見えるようなおなじみの風景が、ミックの手にかかると抱腹絶倒のファンキーなスペクタクルに変わる。
「月面には何がいるんだっけ、ミヤケ。サルだっけ」
「ウサギだ」ミヤケが吠えるような声で答える。「サルじゃない」
「そうだ。ウサギだ。ここからもちゃんと見えるよ。歴代のプレイメイトも勢ぞろいしている。おーっと、うわっ。いきなりアレをはぎ取った。プレイメイトの一人の水着を。けっこう大きなピンク色の。んー。これはぼくの口からは言えないな。あのウサギ、かなりのワルだね。」

 コントロールルームに笑いは起きないが、その場に居合わせる全員が、目をしばたたきながらぎゅっと結んだ口元に笑みを浮かべようとしている。それがミックの最後のジョークに対する礼儀だからだ。何も喋れない士官たちに代わってベッキーが巧みに相手をする。
「ミック、いけないわ。わたしたちの子どもが起きてしまいそうなの」
「わお! 気をつけなきゃね。ぼくは教育にはうるさいんだ」ミックはすぐに反応する。「ところで、それって、どの“わたしたち”?」

 ミックはサービス精神たっぷりに喋り続け、自分の位置を示すために腕や脚を広げたり角度を変えたりして、太陽の反射光が我々に届くように工夫していた。だから我々は本当に長い時間にわたってミックを見つめ続けることになった。最初肉眼でも姿を捉えられたミックは、やがてメインスクリーンに拡大して映しても小さく輝く点に過ぎなくなった。それでも意外なほど声は届き続けた。

「おっと、大変だ。」ミックはかなり遠ざかったところで言った。「おまえたち、大宇宙の闇に呑み込まれそうになっているぞ!」
 もちろんそれはジョークだ。ミックから見れば確かにそう見えるかもしれないが、本当に大宇宙の闇に呑み込まれつつあるのはミック本人なのだ。
「大丈夫よ、心配しないでミック」そんな時もベッキーは軽口で返す。「これ、コマーシャル入りだから」
 訓練の成果でベッキーの声はハキハキとしてとても明るく元気づけられる。けれどもコントロールルームのいる全員が、ベッキーの頬を流れる涙に気づかないわけにいかない。

 その時、ミックがいままでと少し違ったトーンで言った。
「ええと。そっちはまだ聞こえているのかな? こっちは無音になった。ベッキーのジョークが聞こえなくてさびしいよ」しばらく間があいた。はあ、はあ、というミックの大きな息づかいがやけにはっきりとコントロールルームに響いた。「ぼくは喋り過ぎたかな?」
 コントロールルームの全員が「ノー」「ミックもっとしゃべってくれ」と口々に言った。

「大事な時にくだらないことばかり言って悪かった。静かだ。とても静かだ。相手がいないとぼくはしゃべれないよ。みんな聞こえてるか?」
 コントロールルームの全員が「イエス」「みんな聞いているぞ」と口々に言った。
「聞こえてなくても誰かがこの声を拾うだろう。そいつのためにしゃべろう。ぼくはマイク・スペンサー。月軌道周回基地のルナ・ステーションのクルーだ。船外活動をしていて宇宙空間に放り出された。仲間は全力を尽くして救助に取り組んでくれた。でも運悪くぼくは仲間から遠ざかりつつある。」

 誰かが嗚咽を漏らし、こらえられなくなった何人かがすすり泣きはじめた。その間もベッキーは小さな声で「ミック? ミック?」と呼びかけ続けている。再び通信がつながることを期待しているのだ。

「ぼくはいまたったひとりだ」ミックがとても素直な調子で言う。しばらく間があく。大きく深呼吸でもしているような気配がある。「ぼくから見える月もほとんど夜の側だ。縁が光っているけどあれも間もなく見えなくなるだろう。そうなると本当にすごい闇に包まれることになる。声も聞こえない。何かに触ることもできない。本当に」

 声が途絶えたので、我々はとうとう通信が途絶えたのだと思って、思わず「ミック!」「ミック!」と叫んだ。けれどもそれは通信の終わりではなかった。
「本当に孤独だ」ミックの声が泣いていた。コントロールルームでもあちこちで号泣する声が聞こえて来た。「誰もいない。何も聞こえない。見えるのは月と、星だけだ。太陽も隠れてしまった。ぼくを照らす太陽もない。みんなにも、もうぼくは見えていない。おや。あれは何だ」

 そしてミックの最後の中継が始まった。
「月面に何かがある。みんな。聞こえるか。聞いてくれ。月の裏側に何かある。地球から見えないところに。足跡だ。巨大な。巨大な足跡だ。踏みしめる音が聞こえる。わかるか、ミヤケ? ボンだよ。サンスクリットのブラフマン。宇宙の真理がここにある。本当の沈黙の中でしか聞こえない音だ。あの巨人のステップは宇宙の始まりの音だ。みんなこっちに回り込んだら月面の足痕を見逃すな。ボン。ブラフマン。ビッグ・バン。宇宙のはじまりの音が聴こえるか。」

 それが通信の最後の部分だった。後になって、誰かはそれをミック一流の最後のジョークだといい、誰かは人生の終わりにミックが大きな真理に到達したのだと言った。どちらだとしてもそれはとても偉大なことだとみんなは思った。でもそんな話が出ると決まってベッキーは言った。「だめよ。わたしは納得しないわ。ミックのオチを聞くまではね」

(「月面の足跡」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)