◇ 楚 ― 2009/08/01 21:55:12
「楚々とした」と聞くとなぜか幼い頃の情景を思い出す。
夏休み。田舎のおばあちゃんの家。味が濃くて量が多過ぎる晩ご飯を食べ終わるとおじさんが用意していた花火を出してくれる。ぼくらは暗くなった庭に飛び出し、恐る恐るマッチを使う。勢い良く吹き出した花火にびっくりしていたら、一つ上年の従姉の笑い声がする。見上げると従姉は浴衣を着て花火の光を下から浴びて、昼間見るのとは全然違って見える。その時の彼女の顔を思い出す。いや。その時の庭の闇と、花火と、見えたような気がする螢の光と、白く浮かびあがる彼女の微笑み。遠い夏の日の思い出の中の美。
* * *
「楚々としたなんて言葉、聞いたことがないなあ」タケが横から覗き込んで言った。「それ、かわいいってこと? 紹介しろよ、従姉妹」
「読んでんじゃねーよ」トオルはそれほどいやそうでもなく紙をしまった。「これは創作」
「とかいって、いまでも好きなんじゃねーの?」
「おれには田舎もねーし、従姉妹もいねーの」
グラウンドから野球部がランニングに合わせて、「せ!」とか「えい!」とかいうかけ声が聞こえてくる。放課後の教室。期末考査も終わって夏休み直前の天国の日々。今日返って来たいまいましいテストの答案用紙さえなければ、という注釈つき話だが、それでもまあ天国の日々。授業もないし、テストも当分ない。夏はこれからだし、ミンミンゼミも鳴きはじめた。
「それ、どうすんの?」
「それって?」
「その、ソーサク」
「ああ」トオルはカバンに目をやり、タケに向かって笑った。「わかんね。急に思いついて書いた」
「なんだそれ。イタコかよおまえ」
「イタコじゃねーよ」トオルは笑い、窓の外のグラウンドを眺める。「あーあ、あいつ」
「どした?」
「ほれ、ランニング。ハギワラ見てみ」
「ハギワラがどした?」
「また所定のポジションだ」
「所定のポジション?」
「そ。ビリ」
* * *
そのときハギワラはランニングとは関係ないことで悩んでいた。さっきから頭の中をある音楽がグルグルと回り続け、逃れられなくなっていたのだ。しかもそれはランニングのペースとは全く関係のない音楽だった。スポーツ刈りの頭からは汗がたらたら流れ落ち、顎を伝ってぽたぽたと落ちて行く。蝉の声がやかましく近づいたり遠のいたりするのは、自分たちが近づいたり遠ざかったりしているせいだ。
他の部員のペースについて行けずどんどん遅れてしまうのはいつものことだ。それにしても今日はひどい。頭の中で鳴り響く音楽のせいで足のリズムも乱れ、しかも時々自分がどこを走っているのかわからなくなる。くそ。あのオペラ親父め。ハギワラは胸の内で父親に向かって毒づく。日曜日ごとにがんがんがんがんオペラをかけやがって。おれの足が遅いのは親父のせいだ。オペラなんか聞かされて育ったせいだ。
頭の中でオペラが鳴り続けることだけならまだよかった。ハギワラはさらなる苦しみを味わっていた。何だっけこの曲。この曲のタイトル、何だっけ? そう。ハギワラは知っているはずのその曲の曲名を思い出せないことにも苦しんでいたのだ。意識がだんだんもうろうとなって来て、ますます正解は遠のいて行く。ロッシーニだ。急にそう思う。いやモーツァルト。ちがうちがう。モーツァルトのはもっと別な。フィガロの結婚! だからそれはモーツァルトで。
「ハギワラ!」
どこかで誰かが叫んだ。空が大きく回り込み、一瞬にして暗闇が押し寄せて来た。蝉の声が一定になった。理髪師だよ、と誰かが囁いた。どこに? どこにじゃねーよ。理髪師だってば。ああ。ハギワラは遠のく意識の中でやっと正解にたどりついた。
「理髪師だ」
「ハギワラ! 大丈夫か。しっかりしろ!ハギワラ!いま水を持ってくるから」
「理髪師だよ、セビリヤ」
* * *
萩原教授の元に息子が倒れたと言う連絡が入ったのは講義の終盤だった。講義は幾何学的錯視に関するものだった。実際には一直線の線分が、平行線によって中断されることでずれているように見えるポッゲンドルフ錯視。同じ長さの3本の線分が、遠近法を思わせる2本の直線にはさまれることで長さが異なって感じられるポンゾ錯視。どのようにしてそれが起こるのかを簡単に説明し、まず学生達にそれを体験してもらおうという実験にとりかかろうとしていた。
「こういう図形はみんなよく知っていると思う」萩原教授はプロジェクターを操作しながら言った。「矢印が外側に向いているのと、線分を両端から内側に挟み込んで見えるもの。こういう錯視のこと、何て言うか知ってるか? 藤枝君」
「ミューラー・リヤー錯視です」
藤枝と呼ばれた女子学生は即答した。
「ご名答」満足げにうなずくと萩原教授は教室を見回した。「だから結論はみんな知っている。ひっかかるまいとすることもできる。そういう警戒心たっぷりな諸君にやってもらうことこそが醍醐味なんだな」
藤枝小夜子はその実験を体験済みだった。萩原教授は小夜子にいろいろな実験をさせたがったからだ。それが何を意味するのか小夜子にはよくわからなかった。教授が小夜子のことを本当に好きだからなのか、身体だけが目的ではないことを示そうというパフォーマンスなのか、それともただ本当に心理学が大好きだからなのか。考えてもわからないことだから考えないことにしている。
小夜子は固定された内向図形を見ながら、線分の長さを自由に変えられる外向図形を調節し、同じ長さだと思ったところで止めて計測する。長くなるに決まっている。そういうものだからだ。誰かが誰かを騙しているわけではない。でも心でこうだと思うことと、実際の間にはズレが生じてしまうのだ。錯視を利用して誰かを騙すことはできるかもしれない。けれど錯視そのものは誰の身にも起こる単なる現象に過ぎない。
「萩原先生」前方のドアが開き、事務長が駆け込んできて、萩原教授の言葉を途中で止まった。「先生、息子さんの学校から連絡がありまして」
それを聞いて小夜子の中で何かがふくれあがり始める。小夜子の心の中で警報が鳴り渡る。入って来てはならないものが入って来たのだ。教授とわたしの世界にそんなものはいない。そんなものはいらない。
いつもは大人しい真面目な藤枝小夜子が、大きな声を出して立ち上がったので、教室内は騒然となる。両腕を振り回しぶざまに暴れはじめた小夜子を男子学生が数人掛かりでとりおさえ、小夜子が泡を吹きはじめたので救急車が呼ばれた。小夜子が何かをうわごとにように呟いているので、何人かが聞き取ろうとしたが、はっきりとはわからなかった。後になってその話を聞かされた萩原教授だけがそれが何だったのかがわかった。自分の講義が中断された時に最後にしゃべっていた言葉だった。けれども小夜子がそれを繰り返すということが何を意味するのか、教授にはわからなかった。「つまりここで見られるのはポンゾ及びリヤー」
* * *
タケの順番が回って来てキューにチョークをつけているところで、トオルから電話がかかって来た。いつもは冷静なトオルがひどく興奮していて何を言っているのかよくわからない。イメージどおりだったとか、ちょっと違う気もしたとか、偶然が重なってとか、話があっちこっちに行ってさっぱり要領を得ない。何度も聞き直してようやく、トオルに従姉がいたらしいということだけわかった。
「従姉なんていねーって言ってたじゃん」
「だからいたんだよ」
「なんで」
「従姉がいるのになんでもねーだろ」
「ちげーよ。なんでわかったのって」
「おふくろがさ、親戚に言われて病院に見舞いに行ったわけ」
「はあ?」
「うち帰ったらおふくろいなくてよ」
「はあ」
「小夜子さんが入院したそうなのでお見舞いに行きますとか書いてあるわけ」
「はあ?」
「で、急にピンと来ておれ、病院行ったわけさ」
「はあ」
「それが従姉だったわけ」
「はあ」
「そしたらそこにハギワラも入院しててさ」
「はあ」
「すげーだろ」
「全然わかんねーんだけど」
「もういいよ」
「っつーか、何それ。全然わかんねー。何かすげー腹立つ」
「わりぃわりぃ」
「じゃ、あれ、ソーサクじゃなかったの?」
「わかんね」
「んだよ、それ。この電話。何?」
「またちゃんと説明するわ。いま何してた?」
「え、おれ? ビリヤード」
(「ビリヤード」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
夏休み。田舎のおばあちゃんの家。味が濃くて量が多過ぎる晩ご飯を食べ終わるとおじさんが用意していた花火を出してくれる。ぼくらは暗くなった庭に飛び出し、恐る恐るマッチを使う。勢い良く吹き出した花火にびっくりしていたら、一つ上年の従姉の笑い声がする。見上げると従姉は浴衣を着て花火の光を下から浴びて、昼間見るのとは全然違って見える。その時の彼女の顔を思い出す。いや。その時の庭の闇と、花火と、見えたような気がする螢の光と、白く浮かびあがる彼女の微笑み。遠い夏の日の思い出の中の美。
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「楚々としたなんて言葉、聞いたことがないなあ」タケが横から覗き込んで言った。「それ、かわいいってこと? 紹介しろよ、従姉妹」
「読んでんじゃねーよ」トオルはそれほどいやそうでもなく紙をしまった。「これは創作」
「とかいって、いまでも好きなんじゃねーの?」
「おれには田舎もねーし、従姉妹もいねーの」
グラウンドから野球部がランニングに合わせて、「せ!」とか「えい!」とかいうかけ声が聞こえてくる。放課後の教室。期末考査も終わって夏休み直前の天国の日々。今日返って来たいまいましいテストの答案用紙さえなければ、という注釈つき話だが、それでもまあ天国の日々。授業もないし、テストも当分ない。夏はこれからだし、ミンミンゼミも鳴きはじめた。
「それ、どうすんの?」
「それって?」
「その、ソーサク」
「ああ」トオルはカバンに目をやり、タケに向かって笑った。「わかんね。急に思いついて書いた」
「なんだそれ。イタコかよおまえ」
「イタコじゃねーよ」トオルは笑い、窓の外のグラウンドを眺める。「あーあ、あいつ」
「どした?」
「ほれ、ランニング。ハギワラ見てみ」
「ハギワラがどした?」
「また所定のポジションだ」
「所定のポジション?」
「そ。ビリ」
* * *
そのときハギワラはランニングとは関係ないことで悩んでいた。さっきから頭の中をある音楽がグルグルと回り続け、逃れられなくなっていたのだ。しかもそれはランニングのペースとは全く関係のない音楽だった。スポーツ刈りの頭からは汗がたらたら流れ落ち、顎を伝ってぽたぽたと落ちて行く。蝉の声がやかましく近づいたり遠のいたりするのは、自分たちが近づいたり遠ざかったりしているせいだ。
他の部員のペースについて行けずどんどん遅れてしまうのはいつものことだ。それにしても今日はひどい。頭の中で鳴り響く音楽のせいで足のリズムも乱れ、しかも時々自分がどこを走っているのかわからなくなる。くそ。あのオペラ親父め。ハギワラは胸の内で父親に向かって毒づく。日曜日ごとにがんがんがんがんオペラをかけやがって。おれの足が遅いのは親父のせいだ。オペラなんか聞かされて育ったせいだ。
頭の中でオペラが鳴り続けることだけならまだよかった。ハギワラはさらなる苦しみを味わっていた。何だっけこの曲。この曲のタイトル、何だっけ? そう。ハギワラは知っているはずのその曲の曲名を思い出せないことにも苦しんでいたのだ。意識がだんだんもうろうとなって来て、ますます正解は遠のいて行く。ロッシーニだ。急にそう思う。いやモーツァルト。ちがうちがう。モーツァルトのはもっと別な。フィガロの結婚! だからそれはモーツァルトで。
「ハギワラ!」
どこかで誰かが叫んだ。空が大きく回り込み、一瞬にして暗闇が押し寄せて来た。蝉の声が一定になった。理髪師だよ、と誰かが囁いた。どこに? どこにじゃねーよ。理髪師だってば。ああ。ハギワラは遠のく意識の中でやっと正解にたどりついた。
「理髪師だ」
「ハギワラ! 大丈夫か。しっかりしろ!ハギワラ!いま水を持ってくるから」
「理髪師だよ、セビリヤ」
* * *
萩原教授の元に息子が倒れたと言う連絡が入ったのは講義の終盤だった。講義は幾何学的錯視に関するものだった。実際には一直線の線分が、平行線によって中断されることでずれているように見えるポッゲンドルフ錯視。同じ長さの3本の線分が、遠近法を思わせる2本の直線にはさまれることで長さが異なって感じられるポンゾ錯視。どのようにしてそれが起こるのかを簡単に説明し、まず学生達にそれを体験してもらおうという実験にとりかかろうとしていた。
「こういう図形はみんなよく知っていると思う」萩原教授はプロジェクターを操作しながら言った。「矢印が外側に向いているのと、線分を両端から内側に挟み込んで見えるもの。こういう錯視のこと、何て言うか知ってるか? 藤枝君」
「ミューラー・リヤー錯視です」
藤枝と呼ばれた女子学生は即答した。
「ご名答」満足げにうなずくと萩原教授は教室を見回した。「だから結論はみんな知っている。ひっかかるまいとすることもできる。そういう警戒心たっぷりな諸君にやってもらうことこそが醍醐味なんだな」
藤枝小夜子はその実験を体験済みだった。萩原教授は小夜子にいろいろな実験をさせたがったからだ。それが何を意味するのか小夜子にはよくわからなかった。教授が小夜子のことを本当に好きだからなのか、身体だけが目的ではないことを示そうというパフォーマンスなのか、それともただ本当に心理学が大好きだからなのか。考えてもわからないことだから考えないことにしている。
小夜子は固定された内向図形を見ながら、線分の長さを自由に変えられる外向図形を調節し、同じ長さだと思ったところで止めて計測する。長くなるに決まっている。そういうものだからだ。誰かが誰かを騙しているわけではない。でも心でこうだと思うことと、実際の間にはズレが生じてしまうのだ。錯視を利用して誰かを騙すことはできるかもしれない。けれど錯視そのものは誰の身にも起こる単なる現象に過ぎない。
「萩原先生」前方のドアが開き、事務長が駆け込んできて、萩原教授の言葉を途中で止まった。「先生、息子さんの学校から連絡がありまして」
それを聞いて小夜子の中で何かがふくれあがり始める。小夜子の心の中で警報が鳴り渡る。入って来てはならないものが入って来たのだ。教授とわたしの世界にそんなものはいない。そんなものはいらない。
いつもは大人しい真面目な藤枝小夜子が、大きな声を出して立ち上がったので、教室内は騒然となる。両腕を振り回しぶざまに暴れはじめた小夜子を男子学生が数人掛かりでとりおさえ、小夜子が泡を吹きはじめたので救急車が呼ばれた。小夜子が何かをうわごとにように呟いているので、何人かが聞き取ろうとしたが、はっきりとはわからなかった。後になってその話を聞かされた萩原教授だけがそれが何だったのかがわかった。自分の講義が中断された時に最後にしゃべっていた言葉だった。けれども小夜子がそれを繰り返すということが何を意味するのか、教授にはわからなかった。「つまりここで見られるのはポンゾ及びリヤー」
* * *
タケの順番が回って来てキューにチョークをつけているところで、トオルから電話がかかって来た。いつもは冷静なトオルがひどく興奮していて何を言っているのかよくわからない。イメージどおりだったとか、ちょっと違う気もしたとか、偶然が重なってとか、話があっちこっちに行ってさっぱり要領を得ない。何度も聞き直してようやく、トオルに従姉がいたらしいということだけわかった。
「従姉なんていねーって言ってたじゃん」
「だからいたんだよ」
「なんで」
「従姉がいるのになんでもねーだろ」
「ちげーよ。なんでわかったのって」
「おふくろがさ、親戚に言われて病院に見舞いに行ったわけ」
「はあ?」
「うち帰ったらおふくろいなくてよ」
「はあ」
「小夜子さんが入院したそうなのでお見舞いに行きますとか書いてあるわけ」
「はあ?」
「で、急にピンと来ておれ、病院行ったわけさ」
「はあ」
「それが従姉だったわけ」
「はあ」
「そしたらそこにハギワラも入院しててさ」
「はあ」
「すげーだろ」
「全然わかんねーんだけど」
「もういいよ」
「っつーか、何それ。全然わかんねー。何かすげー腹立つ」
「わりぃわりぃ」
「じゃ、あれ、ソーサクじゃなかったの?」
「わかんね」
「んだよ、それ。この電話。何?」
「またちゃんと説明するわ。いま何してた?」
「え、おれ? ビリヤード」
(「ビリヤード」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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