「お芝居のプロモーションをハックする」#00152005/08/12 00:00:00

若い友人がつくっている「もしも僕がイラク人だったら」というタイトルの公演があって、
今年の3月にLENZメンバー3人で観に行っておおいに盛り上がった。
 
登場人物は2人。東京に住む妄想好きな脚本家が「もしも僕がイラク人だったら」と
いう妄想を繰り広げ、その妄想の主人公をもう1人の役者が演じる、というスタイル。
大部分は妄想の主人公を演じる役者のひとり芝居に近い。
 
ここで描かれるのは生真面目なジャーナリズムでも赤裸々なドキュメンタリーでも目を
釣り上げた反戦でも声高な賛戦でもない。そういう「大きな議論」からは程遠いところにある。
もっと身近でささやかな1時間足らずのエピソードだ。でもその「小さな物語」が
「大きな議論」をぶっ飛ばすくらいの力を持っている。
 
妄想の中味は、米軍の爆撃を受けるバグダッドに住む、とある青年の話だ。灯火管制状態の
暗い部屋で、神経症っぽいおふくろさんをあしらいながら、弟とケンカし、
インターネットで海外の人とチャットする、どうということのない平凡な男が主人公だ。
 
主人公が目にし体験する情景を淡々と丁寧にたどることで、彼の感じ方や考え方に共感を覚え、
いつしかぼくらは思い知る。ニュースとして語られた戦争がいかに“想像力不足”なもので
あったかを。
 
これは別に2003年のバグダッドだけの話ではない。世界でいちばん強いどこかの国が
「あの国は言うことを聞かなくて危険だ」と判断したら、それがどこの国であれ、
突如宣戦布告を受ける可能性がある世界に暮らす以上、どこの国の誰に身に起こっても
おかしくない話だ。
「その時、自分はどんなことを思い、考えるか」最低限、このお芝居で描かれている
くらいの想像力を持っていたいものだと思う。できれば多くの人にもこの想像力を
共有していてほしいとも願う。
でもまあこれは一本のお芝居だ。政治集会なんかじゃない。ことさらに深刻ぶるような
ことでもない。
お芝居を観るというのは、どちらかというと頭のフィットネスクラブのようなものだ。
脳みそが、日常の思考から少し離れたところをさまよって、凝り固まった枠をほぐして、
頭が少し柔軟になって帰ってくる、ブレインマッサージみたいなものだ。
 
そんなこんなで、LENZでは勝手にこの公演を応援することにした。9月に再演があるらしいので、
よかったら観てください。そのプロモーションをほぼ勝手連的にやるので、
そのプロセスも楽しんでみてください。

「ひとくちファクトリー再稼働」#00142005/07/12 00:00:00

3カ月も間があいてしまった。
その間、何もしていなかったというわけではなく、
ここに書く「ネタ=製品」の元になるラフスケッチ、材料のようなものを
mixiの日記でせっせとつくっていた。
 
すでにご存じの方も多いと思うがmixiとは、一人勝ち状態のSNSだ。
ぼくは2004年5月には登録していたのだが、実質的には放置状態だった。
今年に入って、ここを活用してみようと思い、
「今日の不便」というシリーズコラムを書きため始めた。
 
日ごろ「これ不便だなあ。何とかならないかなあ」と感じつつ、
「でもまあ、そういうもんだし」と諦めているようなモノにあえて光を当て、
「ここをこうしたら改善するんじゃないか?」とリデザインを考える。
そういう趣旨のシリーズだ。アメリカのデザインファームIDEOの
思考法をちょびっと真似して頭のトレーニングをしようと思ったわけだ。
 
例えば
・効きすぎているクーラーのこと、
・お金というモノサシの便利さと危険、
・電車を降りる方がすむ前に乗ってくる人の問題、
・危機ボケとでもいうべき現象が広まっていること、
・「自分の好きなものがわからない」と言う人が増えているらしいこと
・ヘンな日本語が平然とまかり通っていること
などなど。それやこれやの、どのツボを押せばものごとが少しマシな
方向に動き出すのか。デザイン的解決を図ろうという試みなのだ。
 
これらはいずれはLENZサイトのコンテンツにしようという目論見があって
はじめたのだが、かれこれ20個くらいたまったので、そろそろ
「ひとくちファクトリー」で加工して製品としてお届けします。
 
ちなみに6月1日からは日記の連日更新を実施中。
これも日記というより、「公開ネタ帳」のような位置づけで、
誰でも引用できる「まくら噺」集をめざしている。
ここからもイキのいい製品を開発する予定なのでどうぞお楽しみに。

「続・エルサレムへの道」#00132005/04/01 00:00:00

間があきましたが、#0011の続きを。
前回はRSRM(声に出すとあーらふしぎ、エルサレム)という言葉の後半部分、
RMとはルールメイカーのことであるとお話しした。
だから今回は前半部分のRSとはなんだというお話をしよう。
 
今年になって複数のお芝居に関わっている。
昨年末にはあるダンス・パフォーマンスのために映像を作る仕事をした。
ぼくが関わらないところでも、仕事で出会う人や
仲間・知人がそれぞれ個人的に何かを創り発表している。
早い話、気がついたら身の回りにすごい才能がひしめき合っていたのだ。
 
そしてどうしたわけか、そういうずば抜けた力の持ち主に限って、
社会的には不安定な立場にありがちなのだ。
よく言えば自由業。はっきり言えば定職のないプー太郎。
ぼく自身はそこまでの才能がないのでコピーライターを自称し、
それなりにキャリアを深めつつあるが、
身の回りの才能たちはもっともっと不安定なところにいるのだ。
 
面白いことに
上記のような自由人たちがこぞって、ある共通した動きを見せている。
例えばそれは、
「新しい修学評価の策定」だったり、
「コミュニティの再生」だったり、
「カネに対抗できる価値観のモノサシづくり」だったりするわけだが、
いずれも「いまある常識、システム」へのカウンターパンチであり、
それに取って代わるオルタナティブの提示なのである。
 
一昔前ならこういうのは
「ドロップアウトしたアウトサイダーによるカウンターカルチャー」
とくくられたのだろう。実際、図式としてはほぼそのまんまと認めていいだろう。
でも彼らはドロップアウトしたわけではない。
どこか「いい場所」から「ひどい場所」に落ちたわけではない。
むしろ出来の悪いひどい道からちょっと脇によけて、
そこにフレッシュでもう少し手応えや歩きごたえのある
新しい道を築き始めようとしているように思えるのだ。
 
さあ、これでやっとつながった。
ロードサイドのルールメイカーたち。
ドロップアウトでもない。脱サラでもない。隠者や仙人なんかじゃない。
ロードサイドで軽やかにステップを踏みながら、
もっとクールでもっと笑えてもっとドキドキできてもっと涙できる新しい道をつくり、
あわよくば世の中のメインストリームを引き込もうとさえしている。
さびた関節にオイルをさして
こわばった脳みそをもみほぐして、
押っ取り刀でそのロードサイドに踏みだし、
ささやかなりともルールメイクしていきたい、
とぼくは思うのだ。よろしければみなさんも、ぜひ。
 
     *     *     *
 
PS.
RSRMの実例ってわけでもないけど、お芝居の方も、
4月12日にザムザ阿佐谷で「阿部一徳の ちょっといい話してあげる」が上演
されます。演目は『ぼくは747を食べてる人を知っています』という小説。
題名通りの途方もないほら話ですが、至高の愛の物語でもあります。
『異形の愛』とはまた違った感動で骨抜きになること必至です。下記を参考に
ぜひお越しを。
 
http://www.laputa-jp.com/zdata/data/samsa/050412.html

「【臨時ニュース】新作、発表します」#00122005/03/13 00:00:00

ナマの舞台情報を。
この春、3つの公演に関わっていて、そのうちひとつはもう終わってしまった。
終わってしまった公演『異形の愛』が非常に良いもので、にもかかわらず
事前の宣伝不足&平日火曜日1回こっきりの上演というスタイルのため、ごく
少ないお客さんにしか見ていただけず、大変もったいないことをしてしまった。
「これではいかん!」というので、あわてての新作情報をアップします。
ひとつは
●tea for twoという劇団の『ヒットパレード』vol.6
 【日時】2005年3月16日(水) 18:30~/20:00~
 【会場】明大前キッド・アイラック・アート・ホール
 【料金】完全予約制 \1500(2005/2/25前売開始)
(詳細は http://homepage3.nifty.com/teafortwo/hitparade/hitparade6.html )
に、脚本を提供します。
これは" 1h theater"と呼ばれる上演時間1時間の企画公演で、その中でも
『ヒットパレード』は2話~4話くらいのオムニバス型式なので、
「お芝居なんて見たことがない」と言うビギナーの方から、
「芝居は好きだけど忙しくて観に行く時間がない」という方まで
お楽しみいただける公演です。
ちょっと笑えてちょっと泣ける、誰かの人生の一瞬をのぞき見る。
そんな感覚の舞台です。往年の名曲が華を添えます。今回は
「青春の影」(チューリップ)
「卒業写真」(ハイ・ファイ・セット)
♪secret number(当日のお楽しみ)
の3曲。ぼくは「青春の影」で一本書きました。面白いですよ。
     *     *     *
もうひとつは先ほど書いた『異形の愛』の流れで
●阿部一徳の ちょっといい話 してあげるvol.4
 『ぼくは747を食べてる人を知っています』with若林充(アコーディオン)
 【日時】2005年4月12日(火) 19:30~
 【会場】ザムザ阿佐谷
 【料金】前売4,000円/当日4,300円
(詳細は
http://www.laputa-jp.com/zdata/data/samsa/050412.html )
小説をまるごとセリフとして入れてしまって、生の演奏とともに語り聞かせる
というスタイルのシリーズ企画(決して朗読ではないので誤解のなきよう)。
ある意味「ものがたる」という行為の原点に立ち返ったスタイルでありながら、
2005年のいま見るものとして非常に斬新でエキサイティングです。
語り手の阿部一徳が惚れ込んだ小説はいずれも奇想に満ちていて、日常的に
凝り固まった頭を心地よくシャッフルしてくれます。見終わった時には必ず
「面白い話を聞いた!」という感想だけでなく、きっと「すごいことに気づ
いてしまった!」とか、「自分の想像力って思っていた以上にすごい!」と
いうような不思議な興奮に包まれていることでしょう。
いずれも何年も経ってから「2005年にはもう観ていたもんね」と人に自慢
できるようなタイプの公演です。数年後のヒット企画を先取りしたい方は
いまのうちにぜひ。

「エルサレムへの道」#00112005/02/10 00:00:00

といっても宗教的な話ではない。
そもそもエルサレムとはあの聖地のことですらない。
RSRMと書いて「アールエスアールエム」と声に出すと何となく響きが
エルサレムに似ていたという理由から、そう呼ぶことにした……
というだけの言葉遊びである。
ではRSRMとは何か。ここからが本題だ。
この数年よく考えることの一つに、「ルール」というテーマがある。
「ルール」と自分のつき合いを考えるとだいたいこんな感じだ。
いまの半分くらいの年齢のころまでは「ルール」というのものは
無視したり、軽視したり、壊したりするのが正しいと思っていた。
モラルくそ食らえ、大人の決めたルールなんてぶっ飛ばせ!というわけだ。
その後、社会人として働き始めると、自分自身がそうしていることに
目をつぶりながらルールに従うようになってしまう。
というよりルールからはずれないようつとめるようになる。
口では威勢のいいことを言っていてもだんだん「ルール」からはずれなくなる。
そしてある日気づく。
待て待て待て。「ルール」というのは絶対的なものじゃない。
いつの時代かのどこかの誰かが(あるいは誰かたちが)決めたものに過ぎない。
その時代のそこのその人たちには、とっても合っていたルールかもしれないが
それが未来永劫全世界に通用するってことはないだろう!
そうして「ルール」との付き合い方には、
壊したり無視したりする「ルール・ブレイカー」や
守ることができ、大人しく付き従う「ルール・テイカー」だけでなく、
新たに「ルール」をつくり広める「ルール・メイカー」
というものがあることを意識するようになる。
ルール・メイカー、すなわちRMである。
それではRSとは何か。
ロードサイドである。
ロードサイド?! ロードサイドだって?
ロードサイドのルール・メイカー?
いったいぜんたいそれはどういう意味だ?
という声が聞こえる気がするが、長くなるので今回はここまで。
次回にこの続きを書くとしよう。

「揺れる僧りょ「かくれ念仏」」#00102004/12/16 00:00:00

Yahoo!ニュースをよく見ている。
トピックスというページには
最新のめぼしいニュースの見出しがずらりと並んでいる。
これは実際のニュースの見出しを簡潔にまとめたもので、どんな記事でも
全角13字以内になっているようだ。それはすごい。
これをまとめている人って誰なんだろう?
たいした技である。俳句とか、きっと得意なんではなかろうか。
と、感嘆する。
でも、もともとが無茶なことをしているので、たまに無理が生じる。
例えばそれが
揺れる僧りょ「かくれ念仏」である。
これを見てみなさんはどう思うだろうか。
ぼくは「お坊さんの世界も大変なんだろうな」と思った。
「かくれ念仏ってのは、きっと正統派からすると許し難い異端なんだろうな。
あるいは世紀のルートを通さないで法事をやってしまったりするのかもしれない。
いずれにしても、かくれ念仏をめぐっては激しい対立があるんだろう。
そして、かくれ念仏を推進する異端の一派と禁止する体制側の間で
揺れに揺れているんだろう。でもかくれ念仏の側からすれば
体制側の腐敗こそ許せなかったりもするんだろうな」などなど。でも実際には、これは
「かくれ念仏」として知られる師走恒例の「空也踊躍(ゆうやく)念仏」が
13日、京都市東山区の六波羅蜜寺で始った。
という年中行事のひとつのレポートに過ぎないのである。そしてその記事を読みながら「へ~」と思う。
その前に頭の中で繰り広げられた宗教界に渦巻く正統派と異端の対立は
一瞬にしてどこかに消し飛んでしまう。でもぼくの中ではそういう
「存在しなかったニュース」が少しずつ積み上げられている。
それらは、いつかどこかで何らかの形で
日の目を見るかもしれないし、そうはならないかもしれない。
その一瞬で消えた、ぼくの中だけの「存在しなかったニュース」のことが
いま、ちょっと気になる。争いに敗れて「正史」に残れなかった者達の歴史より
もっとはかない、どうでもいいようなことなのだけれど。

「日常的な日本の風景~何に感動し、誰のために涙を流すのか」#00092004/10/25 00:00:00

ビミョーな領域に踏み込みそうな話題をひとつ。
今年は台風や地震で列島はメタメタなわけだが、
そんなことが続く中ではこんなエピソードも生まれてくる。
 
新潟中越地震が起きたとき、アニメ番組が中断されてニュースが始まったらしい。
このアニメには(もちろんのこと)熱狂的なファンがいて、
熱狂的なファンにとってその日のエピソードは(もちろんのこと)
神聖にして犯すべからざるエピソードだった。
だから熱狂的なファンは(もちろんのこと)ぶちきれてテレビ局に抗議した。
 
わざわざ特筆するまでもない、日常的な日本の風景、と言ってしまえばそれまでだ。
でも、ここには何かひどく居心地の悪い何かがある。
 
その熱狂的なファンたちはそのアニメを見ながら涙を流したりするわけだ。
思い入れのあるキャラクターが傷ついたり命を落としたり、
思い入れはなかったけど死の間際にすごくいいやつだったことがわかったり、
あまりにあっけなく命が失われていく無情さにうちのめされたり、
まあ、そんなこんなで涙を流したりするわけだ。
 
そして目の前で本当の地震が起こり、
本当の人の命が失われた。
本当の血を流し、本当の骨を折り、
たくさんの人々が傷を負った。
 
本当の家屋がくずれ、本当の交通が分断され、本当の物資不足が起こり、
本当の生活の場が一瞬にして滅茶苦茶になってしまった。
 
そしてそのニュースのせいで大好きなアニメが見られなくなったと、
熱狂的なファンたちがぶち切れて怒り狂うのが
特筆するまでもない日常的な日本の風景なのだとしたら、
その日本の日常とは一体何なんだ?
 
そんなものを日常的な風景にしている日本って一体何なんだ?

「かっこいいじいちゃん」#00082004/10/01 00:00:00

つい最近のことだが、人生の目標が見つかった。
 
「かっこいいじいちゃんになりたい!」
 
これである。
 
押しつけがましくいえば誰もが「かっこいいばあちゃんになりたい」
「かっこいいじいちゃんになりたい」と目標にすればいいのに、とすら思うのだ。
全く余計なお世話である。こんなことを考えているうちは、
まだまだ「かっこいいじいちゃん」にはなれない。
 
しかし「かっこいいじいちゃん」ってのはないんじゃないか? 
という世間の声も聞こえてくる。「ちょっとまだ早いんじゃないか」
「なんかもう、諦めてしまってないか」と。確かにじいちゃんになるには20年くらいかかりそうだ。
 
オリンピックで金メダルを取るとか、ビル・ゲイツもびっくりの金持ちになるとか、
もう、そういうことを口走る年齢でもないということもあるが、
決して目の前を諦めたから言っているわけではない。
むしろ個人的には、いままでに思いついた中で最もポジティブな目標だと思っている。
 
なにしろ「かっこいいじいちゃん」である。
 
歳をとらなきゃいかんわけだ。ということは長生きが前提にある。
わざわざ早死にするようなマネはしてはいけない。かといって、何もせずにぐずぐずと
生きていてはかっこいいじいちゃんにはなれっこない。
 
かなりいろいろやったり、いろんな人に会ったり、経験豊富な方がいい。
知識だって(片寄っていても全然かまわないから)、豊富であるに越したことはない。
そして何より若いのが「あんなじいちゃんになれるなら、年を取るのも悪くないなあ」と
思ってくれれば、その世の中はかなりいい。
 
大人になること、年を取ることが魅力的な世の中なら、悪くはならない。
 
と思うのだが、いかがでしょう?

「リメンバーABC」#00062004/08/25 00:00:00

2004年7月16日、青山ブックセンター(以下、ABC)が消滅する。
 
事前には何の予告もなく当日になって突然の閉店告知。
民衆は茫然とし、嘘だろ?と叫び、あわてふためきうろたえ騒ぐ。
後世になって歴史家たちはこの事件を「ABCショック」と呼ぶわけだが、
今日はこの事件をめぐってお話しするとしよう。
 
いまとなっては確かにABCのような品揃えの書店はあちこちにある。
けれど、少なくともある世代以上の(首都圏の)本好きにとってABCは
アート系の本、写真集、サブカルチャー、マニアックな人文書、趣味的な書籍……
といったものを象徴する存在だったことは間違いないだろう。早い話、そういった
ジャンルの本とABCで初めて出会い、「世の中にはこんな本があるんだ!」と
興奮したことがある人もたくさんいるはずだ。
 
「あの手の本を探すならABC」と決めていた人もいるだろう。
「いつかABCで大金を使うのが夢だった」なんて人もいるだろう。
文部(科学)省的「健全な読書」からかけ離れた隠微な本をABCで漁るのが秘かな
楽しみだった、という人もいることだろう。
それだけじゃない。
六本木で夜遊びして店から出て地下鉄もまだ走らぬ時間帯、ぶらりと立ち寄り
本の森に迷い込んだ人もいるはずだ。
 
そんな(ある世代以上の?)本好きにとってABCの消滅は、大袈裟に言えば
精神的支柱が失われるような喪失感があったことと思う。
「もう一度行きたかった」「そんなことなら買いあさっておけば良かった」
「どうしてオレに一声かけてくれなかったんだ、水くせえじゃねえか」etcetc...
 
そして苦い教訓をかみしめる。
つぶれてほしくない店ではお金を使おう。
なくなってほしくない商品は金を払って買おう。
消滅してからいくら嘆いてもどうしようもないのだから。
ABCショックを、この喪失感忘れずにおこう。
リメンバーABC! リメンバーABC!

「続・リメンバーABC」#00072004/08/25 00:00:00

「リメンバーABC」をひっぱることにする。
実は2004年8月25日付の記事で、青山ブックセンター(ABC)の再開が報じられて
いるのだ。支援企業の手によって青山本店と六本木店は営業を再開、広尾店も名前
こそ、「流水書房」に替えるものの営業を再開することになるということだ。
 
ただしこれらの再開組がどこまで以前の「ABC性」を継続できるのか、
これはまだわからない。ただはっきり言えるのは「リメンバーABC」のスタンスで
考えると、「ABC性を保つ上で我々にはできることがある」ということだ。
 
時々再開したABCに時々足を運んでみて、それぞれが信じる「ABC的な本」を購入
すればABC性を保てるかもしれない、というわけだ。少なくとも、全国どこにでも
ある、金太郎飴のような個性のない巨大書店にしてしまわないためにも。
 
それは何もABCだけの話ではない。
全国どこでも、全世界どこでも、身近なお気に入りの本屋さんを守るために、
ぼくらにはささやかだけど、できることがある。
その本屋に置いていて欲しいと期待する本を時々買うこと。
もし欲しい本がなければリクエストして自分の好みの本屋に「鍛え上げる」こと。
なんなら、万引きするやつをつかまえて、突き出してもいい。
 
そしてそして。
この話は本屋に限った話ですらない。
ぼくらの身近な八百屋さん、雑貨屋さん、定食屋さんやレストラン、酒屋さんや
居酒屋さん、屋台、いっぱい飲み屋、ショットバー、アイリッシュパブ、
ああもう何だかわからないけれど、気に入った店を守るために、ぼくらは飲んで
飲んで飲みまくらなければならないのである。(違)
 
※ABC閉店の理由は単純に書店の売り上げの問題だけではなかったようですが、
 いずれにしても十分に採算がとれていれば閉店の憂き目には合わなかったで
 あろうということで、リメンバーABC。
※『だれが「本」を殺すのか』(佐野眞一/新潮文庫)で本をめぐる
 状況について徹底的な取材と詳細な分析がなされています。
 「本が好き」「本屋で過ごす時間が好き」という人にとってはかなり響く
 一冊なのでオススメです。