◇ 本 ― 2009/08/11 15:46:41
読むものがなくても、お話には不自由しなかった。
彼らがいたから。
彼らの誰かが話を始めると、たちまちそこは物語の世界になった。テツさんと呼ばれていた年老いた男性は、中国の古い時代の人々の話がとても上手だった。わたしは昔の中国のこともいまの中国のことも知らなかったけれど、お話を聞いていれば、昔の中国の市場の雑踏の賑わいや、酒場での喧嘩の様子、権力者たちの駆け引きなどがありありと目に浮かんだ。テツさんは家に棲む不思議な生き物についてのちょっとこわい話も上手だった。怯えながら話を聞くわたしを見て、シェリーと呼ばれていた女性がテツさんをたしなめていたことも思い出す。
シェリーさんは、本当はノリコさんというのだけれど、みんなにシェリーと呼ばれて一目を置かれていた。たぶんお話がとても上手だったからではないかと思う。彼らはお話をすることを仕事にしていたからだ。もっとも、わたしが彼らと暮らした子ども時代、彼らはその、お話の仕事をできなくなっていた。わたしが生まれるよりずっと前には、彼らはみんな世界中を飛び回って、世界中の人々にお話を聞かせていたらしい。
彼らの中で一番若かったトオルさんが聞かせてくれただけでも、イラク、コンゴ、南オセチア、チェチェン、スペインなどの国でいろいろなお話をしてきたらしい。トオルさんは自分が訪れた国の風景や、人々の親切さ、食べ物のおいしさの話をしてくれたので、わたしは自分も遠い国を旅しているような気持になった。旅先でスリにあったり、食べ物が合わなくてお腹をこわしたり、なんて話も胸がドキドキするくらい夢中で聞いた。
でも、トオルさんがときどき興奮して、世界が我々を必要としていたんだ!と熱心に話し始めるとテツさんや、アオイさんがニコニコしながら、およしなさい、マチコがびっくりしてるじゃないかとなだめたものだ。確かにかつて世界は我々を必要としていたかもしれないけれど、いまは我々にうろちょろしてほしくないと思っている。いま我々はマチコちゃんにお店に行ってもらわなければろくに食事だってできない状態だ。大事にされた時期もあるが、いまはこの通り邪険にされている。イッテコイ。プラマイゼロ。それを受け入れなくては。
だけど!とトオルさんは悔しそうに言いかけてやめる。トオルさんはテツさんやシェリーさんやアオイさんや、無口なゲンさんや、“魔術師”と呼ばれていたハラさんのことを本当に尊敬していたからだ。トオルさんは時々こっそりわたしに彼らがどんなにすごい語り手なのかについて聞かせてくれた。世界各国の紛争地を訪れ、時には独裁者に会い、時には要人の中の何人かに会い、時にはその国の議会で演説し、彼らをお話に夢中にさせたそうだ。ナレーターは政治家でも外交官でもないので、ただ面白い話をするだけなのに、多くの場合、一触即発の状態にあった紛争は小康状態に戻るのだという。
ナレーター・システムは世界的に評価されていたんだ。理詰めでもなく、感情論でもなく、もちろん武力や威圧や脅迫でもなく、紛争を実質的に緩和させる解決策としてね! そしてトオルさんの先輩たちがどこの国でどんな活躍をして来たのか、熱心に、しかしこっそりと聞かせてくれた。いまでもわたしはその時のトオルさんの目を覚えている。トオルさんはテツさんやシェリーさんをはじめ、いまはここにはいない人たちも含めて、先輩の語り手たちを本当に尊敬していて、自分はともかくその語り手たちがいま、こうして不遇の環境にあることを心から悔しがっていたのだ。子どものわたしにもそれがすごくよく、くっきりとわかった。
ある晩、みんなが集まっているとき、それは始まった。きっかけはわたしのひと言だった。みんな、いつからそんなにお話が上手だったの? いつから? 珍しくゲンさんが口を開き、“魔術師”のハラさんが、最初の仕事、ナレーター・システムに採用された時、人生で初めて自分が語り手だと気づいた時、いろいろあるが、さあどれが面白いだろう、と言った。
初めてのこと、ね。うっとりとした口調でシェリーさんが言い、そうだ、それだとテツさんが応じて、その話が始まったんだ。当代随一の語り手たちが、自分が語り手だと悟った初めてについて、目もくらむようなお話が始まったんだ。この本は、そのときわたしが聞いたお話の本だ。
(「初めてのこと」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
彼らがいたから。
彼らの誰かが話を始めると、たちまちそこは物語の世界になった。テツさんと呼ばれていた年老いた男性は、中国の古い時代の人々の話がとても上手だった。わたしは昔の中国のこともいまの中国のことも知らなかったけれど、お話を聞いていれば、昔の中国の市場の雑踏の賑わいや、酒場での喧嘩の様子、権力者たちの駆け引きなどがありありと目に浮かんだ。テツさんは家に棲む不思議な生き物についてのちょっとこわい話も上手だった。怯えながら話を聞くわたしを見て、シェリーと呼ばれていた女性がテツさんをたしなめていたことも思い出す。
シェリーさんは、本当はノリコさんというのだけれど、みんなにシェリーと呼ばれて一目を置かれていた。たぶんお話がとても上手だったからではないかと思う。彼らはお話をすることを仕事にしていたからだ。もっとも、わたしが彼らと暮らした子ども時代、彼らはその、お話の仕事をできなくなっていた。わたしが生まれるよりずっと前には、彼らはみんな世界中を飛び回って、世界中の人々にお話を聞かせていたらしい。
彼らの中で一番若かったトオルさんが聞かせてくれただけでも、イラク、コンゴ、南オセチア、チェチェン、スペインなどの国でいろいろなお話をしてきたらしい。トオルさんは自分が訪れた国の風景や、人々の親切さ、食べ物のおいしさの話をしてくれたので、わたしは自分も遠い国を旅しているような気持になった。旅先でスリにあったり、食べ物が合わなくてお腹をこわしたり、なんて話も胸がドキドキするくらい夢中で聞いた。
でも、トオルさんがときどき興奮して、世界が我々を必要としていたんだ!と熱心に話し始めるとテツさんや、アオイさんがニコニコしながら、およしなさい、マチコがびっくりしてるじゃないかとなだめたものだ。確かにかつて世界は我々を必要としていたかもしれないけれど、いまは我々にうろちょろしてほしくないと思っている。いま我々はマチコちゃんにお店に行ってもらわなければろくに食事だってできない状態だ。大事にされた時期もあるが、いまはこの通り邪険にされている。イッテコイ。プラマイゼロ。それを受け入れなくては。
だけど!とトオルさんは悔しそうに言いかけてやめる。トオルさんはテツさんやシェリーさんやアオイさんや、無口なゲンさんや、“魔術師”と呼ばれていたハラさんのことを本当に尊敬していたからだ。トオルさんは時々こっそりわたしに彼らがどんなにすごい語り手なのかについて聞かせてくれた。世界各国の紛争地を訪れ、時には独裁者に会い、時には要人の中の何人かに会い、時にはその国の議会で演説し、彼らをお話に夢中にさせたそうだ。ナレーターは政治家でも外交官でもないので、ただ面白い話をするだけなのに、多くの場合、一触即発の状態にあった紛争は小康状態に戻るのだという。
ナレーター・システムは世界的に評価されていたんだ。理詰めでもなく、感情論でもなく、もちろん武力や威圧や脅迫でもなく、紛争を実質的に緩和させる解決策としてね! そしてトオルさんの先輩たちがどこの国でどんな活躍をして来たのか、熱心に、しかしこっそりと聞かせてくれた。いまでもわたしはその時のトオルさんの目を覚えている。トオルさんはテツさんやシェリーさんをはじめ、いまはここにはいない人たちも含めて、先輩の語り手たちを本当に尊敬していて、自分はともかくその語り手たちがいま、こうして不遇の環境にあることを心から悔しがっていたのだ。子どものわたしにもそれがすごくよく、くっきりとわかった。
ある晩、みんなが集まっているとき、それは始まった。きっかけはわたしのひと言だった。みんな、いつからそんなにお話が上手だったの? いつから? 珍しくゲンさんが口を開き、“魔術師”のハラさんが、最初の仕事、ナレーター・システムに採用された時、人生で初めて自分が語り手だと気づいた時、いろいろあるが、さあどれが面白いだろう、と言った。
初めてのこと、ね。うっとりとした口調でシェリーさんが言い、そうだ、それだとテツさんが応じて、その話が始まったんだ。当代随一の語り手たちが、自分が語り手だと悟った初めてについて、目もくらむようなお話が始まったんだ。この本は、そのときわたしが聞いたお話の本だ。
(「初めてのこと」ordered by タリン-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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