◇ 柳2009/08/30 18:45:38

 ステップなど踏めなくとも、おまえが風のダンス・パートナーだ。

 一本の柳の木を前にして発したこの言葉が風博士の辞世の言葉だという説もあるが、それはさすがに出来過ぎだろう、とわたしは思う。だいたい臨終の際に目の前に柳の木があるという状況がよく分からない。のたれ死にをしたということだろうか。確かにのたれ死にしそうな人ではあるけれど、だったらこんなキザなことを言っている場合ではないはずだ。

 それにわたしはあの人が柳の木の前で死んだわけではないことを知っている。もし本当に柳の木に向かってそんなことを言ったのなら、それはもっと別な場所、別な時間のできごとだ。だからたぶん、いや間違いなく、本当の最期の言葉はもっとろくでもないものだったはずだ。「ケチャップ買い忘れた」とか「冷えるとしょんべんが近くていけない」とか「博士の博って、右上に点がいるんだっけ?」とか、そういうの。そういうのがあの人には合っている。

 世の中に伝えられている「風博士最後の戦い」の後、風博士は風博士を辞めてうちに帰ってきた。何年も何年もろくに連絡も寄越さずにあっちこっちほっつき歩いて、たまにハガキを送ってくると書いてあることは意味不明。島根県で島をうごかしたとか、福島県のハゲ山を苔でおおったとか、長崎は今日も雨だったとか、どこまで本気でどこから冗談なのかさっぱりわけがわからない。

 子どもたちにはもうお父さんはいないものと思わせよう。何度もそう思った。なのにそういう時に限ってハガキが届き、子どもたちは必ずハガキを見つけてしまう。仕方なくわたしは笑顔をつくって、ほらおとうさんがんばってるみたいよ、今度は島根県で島を動かしたんだって。島根県ってどこか地図帳で見てみようね、などと明るい声を出してみせる。あまりにもバカバカしくて子どもたちが寝た後に身体の芯が抜けてしまったような疲れを感じた。

 どこで何をして稼ぐのかある日いきなりとんでもない金額のお金が銀行に振り込まれていたりするのも、感謝しないわけではないが、とても疲れた。わたしは何を頼ればいいかわからず、こつこつと働いてちょっとずつ入るお金を工面して生活しているのに、何の説明もなく法外なお金が口座にはいっていたりすると、そういう苦労をばかにされたように感じてしまうのだ。

 あの人が風博士と名乗って、あちこちで何やら神話じみた活動をしていると知ったのは、何年もたってからのことだった。最初に見たのはテレビ番組の改編期だった。なんとかスペシャルとかいう番組の中で、全国各地のローカルニュースに登場した奇人変人を紹介するコーナーがあって、そこであの人が出てきたのだ。びっくりした。

 「岩手県のとある小さな村で、リゾート開発とともにヒートアイランド現象が起こってしまったのを、一人の男が解決する! その名も風博士!」というナレーションを耳にしながら、わたしは自分が悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。やがて子どもたちがおとうさんだおとうさんだと騒ぎはじめ、わたしはすごいねえ、すごいねえと言うしかなかった。本当は腹が立って腹が立って仕方なくて、すぐにもでテレビを消したかったのだが、子どもたちのために見続けるしかなかった。やがてそのうち、番組改編期ごとにあの人を見ることになった。あの風博士が今度は静岡に! 風博士徳島にあらわる! 風博士、九州初上陸! 風博士とは何者?

 「最後の戦い」を終えて何を思ったのか、あの人は帰ってきた。帰ってきたあの人はテレビで見ていたような風博士なんかでは全然なく、わたしが一緒に暮らしはじめた頃の動物園の飼育係の気のいい青年がそのまま年をとったようにしか見えなかった。おかえり、とわたしは言って、ちょっと遅くなっちまって、といいわけがましくあの人は答えた。初めて出会ったとき、照れくさそうにもじもじしながら踊りませんかと、わたしをダンスに誘った頃から何も変わっていないように見えた。

 子どもたちはすっかり大きくなって、もう独立してしまっていたけれど、おとうさんが帰ってきたと聞いて二人ともすぐに会いにきてくれた。うらんだってよさそうなものなのに、どうしたわけか二人ともとても嬉しそうにおとうさんおとうさんとなついているので、わたしは一人でその理不尽さを我慢していた。ああそうだ、とあの人は言って、わたしたちに土産を渡してくれた。

 子どもたちには南米で手に入れた縦笛と、中央アジアの打楽器。わたしにはハワイで手に入れたと言う何の変哲もないウクレレ。そしてもう一つウクレレを取り出してお揃いだと笑った。そして、みんな、風の仕事をした時に土地の人がくれたものだと言った。風の仕事? わたしたちはあいまいに笑ってうなずくしかなかった。

 わたしは手に取らなかったけれど、あの人はウクレレを毎日熱心に練習していた。本当はもっと腹を立てて、いろいろ言いたかったはずなのに、気がついたらあの人はわたしの生活の中にすんなり入り込んでいて、ずーっと一度も家から離れたことなどないみたいに振る舞っていた。わたしもだんだんそんな気がしてきていた。

 でも、家に戻ってきて半年ももたずにあの人は死んでしまった。本当はとても重い病気にかかっていたのだが、そんなことはおくびにも出さずに病院に通いもしなかった。毎日普通に生活して、普通に食事をして、庭先で楽譜を前に広げてポロンポロンとウクレレを練習し、そしてある朝、ベッドから起きてこなかった。

 あの人のお葬式にはいろいろ奇妙な人がやってきて、荒唐無稽な思い出話をしていった。風博士が死んだとき、世界中の柳が嘆き悲しみむせび泣いたという話を聞かせてくれたのも、そんな中のひとりだった。柳の眷属は、風博士によって風のダンス・パートナーに任じられたことが嬉しかったのだという。

 今日、片付けをしていたら一枚の楽譜が見つかった。それは、踊りませんかと照れくさそうにあの人がわたしを誘った時、ダンスホールに流れていた曲の譜面だった。いまなら柳たちの気持がわかる。柳が風のダンス・パートナーであるように、この何十年間か、わたしがあの人のダンス・パートナーだったのだから。

(「ウクレレ」ordered by sachiko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)