【お題67】視力 ― 2008/02/03 11:51:57
「視力」と言う言葉がどこかに出てくる作品をお待ちしています。
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「視力」ordered by aisha-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
====================
◇ えっ、どこどこ?
小さいころから「えっ、どこどこ?」というのが口ぐせで、よくみんなにからかわれてきた。
みんなが同じものを見ているとき、たとえば遠足に行ってバスの中から「ほら、ウサギがいるぞ」とかみんなが騒いでいるときに見つけられない。中学校の行き帰りに友だちが「あの子かわいい!」とか話しているときにその子が見つけられない。水族館などに出かけて「あそこに説明が書いてある」とか言われてきょろきょろ探しても見つからない。見つけられず「えっ、どこどこ?」と言ってしまうのだ。
近視だからというのもあるけれど、そんなに目が悪いわけじゃない。それなのにしばしば一人だけ見逃してしまうのだ。「エッドコドコ」、略してエドッコというあだ名を付けられたこともある。そんなの本当に嫌だったので何とか同じように見ようとするのだが、どうしても見ることができない。まるで自分の視界にだけ、対象物が存在しないかのように。
そのことが屈辱的で、コンプレックスだったので、何かが見えるとか見えないとか言う話にはできるだけ近づかない習慣ができた。さらに年齢が上がるに従って、「えっ、どこどこ?」と口に出さず、まわりと調子を合わせて見えているフリをするようになっていった。自分だけ見損なっているというのをわざわざ告白しなければ、いちいち確認を取るわけでなし、ものごとは円滑に進むように思われた。
けれどごく最近になって、ある発見があった。かなり重大な発見があった。これは長い間気づかずにいたのだが、逆に相手が「えっ、どこどこ?」と言う場合も、実は多いのだ。この発見のきっかけは、ある人と付き合うようになったことだ。何かの拍子に「見逃すキャラ」の話になって、その時に相手が首を傾げたのだ。
「あれ?」と彼はしばし考えてから言った。「それ、最近よく言ってる気がするんだけど」
「えー! わたし、言わないようにしているからそれはないと思う」
「君が、じゃなくて、ぼくが、だよ」
「へっ?」
いままでそんな話をあまりしたことがなかったので、なかなか気づかなかったのだが、言われてみればそんな気もする。彼の場合、わたしが何かを見つけて「あ。綺麗な模様」とか、「あれって人の顔みたいに見えるね」とか、「わー、すごいカラフル」とか叫んだときに、何のことを言っているのかさっぱりわからないことがあるというのだ。そんな情けない話ってあるだろうか。わたしはみんなの見ているものが見えないし、みんなはわたしの見ているものが見えないなんて! ものすごくズレてるみたいじゃない。超どんくさいみたいじゃない。
「それ、違うかもよ」情けない顔をしていると彼が言った。「それって、実はひょっとしてひょっとするとすごいことかもよ」
「なにが」ぶんむくれてわたしは答える。「なにがすごいのよ」
「犬笛ってわかる?」構わず彼は続ける。「犬を呼ぶ笛。人間には聞こえない笛」
「犬笛? 知らない」っていうか、何なのそれ?と思ったからそう言ってやった。「っていうか何なのそれ?」
「それが聞こえる人がいるんだ。わかる?」噛んで含めるように言わなくてもいいじゃない。わかるよそれくらい。「普通の人には聞こえない音域が聞こえる聴力の持ち主が」
「ふーん」そこでようやくあっと気がついた。「あっ」
「かもよ」彼がうなずきながら言う。「普通の人と見える色の範囲がずれてるのかもよ」
さてここで質問です。
画面から目をそらして何もない天井を見てください。その時何かもろもろしたものが視界を横切るのが見えませんか? 見えていたら、あなたもわたしのと同じ視力の持ち主かも知れません。
(「視力」ordered by aisha-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「視力」ordered by aisha-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
====================
◇ えっ、どこどこ?
小さいころから「えっ、どこどこ?」というのが口ぐせで、よくみんなにからかわれてきた。
みんなが同じものを見ているとき、たとえば遠足に行ってバスの中から「ほら、ウサギがいるぞ」とかみんなが騒いでいるときに見つけられない。中学校の行き帰りに友だちが「あの子かわいい!」とか話しているときにその子が見つけられない。水族館などに出かけて「あそこに説明が書いてある」とか言われてきょろきょろ探しても見つからない。見つけられず「えっ、どこどこ?」と言ってしまうのだ。
近視だからというのもあるけれど、そんなに目が悪いわけじゃない。それなのにしばしば一人だけ見逃してしまうのだ。「エッドコドコ」、略してエドッコというあだ名を付けられたこともある。そんなの本当に嫌だったので何とか同じように見ようとするのだが、どうしても見ることができない。まるで自分の視界にだけ、対象物が存在しないかのように。
そのことが屈辱的で、コンプレックスだったので、何かが見えるとか見えないとか言う話にはできるだけ近づかない習慣ができた。さらに年齢が上がるに従って、「えっ、どこどこ?」と口に出さず、まわりと調子を合わせて見えているフリをするようになっていった。自分だけ見損なっているというのをわざわざ告白しなければ、いちいち確認を取るわけでなし、ものごとは円滑に進むように思われた。
けれどごく最近になって、ある発見があった。かなり重大な発見があった。これは長い間気づかずにいたのだが、逆に相手が「えっ、どこどこ?」と言う場合も、実は多いのだ。この発見のきっかけは、ある人と付き合うようになったことだ。何かの拍子に「見逃すキャラ」の話になって、その時に相手が首を傾げたのだ。
「あれ?」と彼はしばし考えてから言った。「それ、最近よく言ってる気がするんだけど」
「えー! わたし、言わないようにしているからそれはないと思う」
「君が、じゃなくて、ぼくが、だよ」
「へっ?」
いままでそんな話をあまりしたことがなかったので、なかなか気づかなかったのだが、言われてみればそんな気もする。彼の場合、わたしが何かを見つけて「あ。綺麗な模様」とか、「あれって人の顔みたいに見えるね」とか、「わー、すごいカラフル」とか叫んだときに、何のことを言っているのかさっぱりわからないことがあるというのだ。そんな情けない話ってあるだろうか。わたしはみんなの見ているものが見えないし、みんなはわたしの見ているものが見えないなんて! ものすごくズレてるみたいじゃない。超どんくさいみたいじゃない。
「それ、違うかもよ」情けない顔をしていると彼が言った。「それって、実はひょっとしてひょっとするとすごいことかもよ」
「なにが」ぶんむくれてわたしは答える。「なにがすごいのよ」
「犬笛ってわかる?」構わず彼は続ける。「犬を呼ぶ笛。人間には聞こえない笛」
「犬笛? 知らない」っていうか、何なのそれ?と思ったからそう言ってやった。「っていうか何なのそれ?」
「それが聞こえる人がいるんだ。わかる?」噛んで含めるように言わなくてもいいじゃない。わかるよそれくらい。「普通の人には聞こえない音域が聞こえる聴力の持ち主が」
「ふーん」そこでようやくあっと気がついた。「あっ」
「かもよ」彼がうなずきながら言う。「普通の人と見える色の範囲がずれてるのかもよ」
さてここで質問です。
画面から目をそらして何もない天井を見てください。その時何かもろもろしたものが視界を横切るのが見えませんか? 見えていたら、あなたもわたしのと同じ視力の持ち主かも知れません。
(「視力」ordered by aisha-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
【お題68】残り火 ― 2008/02/03 11:57:02
「残り火」と言う言葉がどこかに出てくる作品をお待ちしています。
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「残り火」inspired by futo-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
====================
◇ ゾウガメの飼育
そのゾウガメはかれこれ100年以上生きている。
若い飼育員は世話をしてやりながらも、どこかでゾウガメの方が自分よりも存在感があることを薄々感じている。格の違いを感じるのだ。たたずまいに。目つきに。落ち着き払ったその風格に。そう、風格、と若い飼育員は思ったものだった。すべての飼育員がそう感じるわけではない。鈍感な(と若い飼育員は思うのだが)中年の飼育員は、ゾウガメのことを特にどうとも思わないようだ。ただエサを与えて、時々甲羅をみがいてやる、大きくてのろまな生き物としか思っていない。
自分は違う。と若い飼育員は考える。自分はこのゾウガメの持つ偉大さを感じることができる、と。その風格をくっきり感じ取ることができる、と。
朝、世話をするため小屋に入ると、小屋の片隅でじっとしていたゾウガメはゆっくりと首をもたげ、静かな落ち着いた目で若者を見る。何者にも乱されることのない目つき。何もかも見通したような洞察に満ちた視線。場数を踏んでいるからだろうか、と若者は思う。100年分のいろいろな場面をたくさん見て知っているから、細かいことにいちいち動じなくなっているのだろうか。年の功ってやつだな。そこまで考えて若者は胸の内で笑ってしまう。亀の甲だし年の功ってわけだ。
ゾウガメがまったく食事をしなくなったのは秋の終わり頃だった。ある朝、若い飼育員がエサ箱の中が前日のままなのに気づいて早速獣医に連絡した。獣医はすぐに駆けつけてきたものの、ゾウガメを隅から隅までチェックして、特にどこか病気というわけではなさそうだ、と言った。老衰だろう、と。念のために採血もして帰っていったがやはり後日届いた結果も「異常なし」だった。そう知って若者はできるだけ世話をしてやろうと決意する。残り火が燃えている限り、おれが空気を送り火をおこしてやろう。
食べなくなってからもゾウガメは特に変わった様子もなく、いつものように首をもたげ、静かな目で若者を見て、時に数メートル移動した。見ていると太陽の光がさすときは日なたを選んで甲羅干しをしているようだった。何も食べなくなってから半月たっても見たところゾウガメには何の変化もないように思われた。さすがに若い飼育員は奇妙に感じ始めた。特に弱るわけでもない。動きも変わらないし、見たところ目もしっかりしているし、肌の様子も変わらない。甲羅のつやも変わらない。
どうなっているんだろう? 誰かが夜にエサを与えているのかも知れない。そう思いついて、その晩、当直だった若者は、夜間の小屋に入ることにした。ゾウガメが若者に話しかけたのはその夜のことだった。
若い飼育員は巡回の時間まで当直室でお気に入りの本を眺めていた。それは世界のいろいろな風景の写真に、その国の言葉で風の名前を記した本だった。心地よい微風、間断なく吹き体温を奪う風、すべてを乾燥させ野火を起こす熱波、作物をダメにする邪悪な風、世界にはいろいろな風が吹き、それぞれが名前を持っている。かつて若者は、そのすべての風を訪ね歩くのが夢だった。いまではもうそれが雲をつかむような夢のような話だということがよくわかっている。だからお気に入りの本で写真を眺めるに留めている。
巡回の時間が来て、本を閉じ、懐中電灯を持って若者は当直室を出る。ゾウガメの宿舎を最後に順路を考えて、順番に見回り、夜行性の動物たちの活動や、眠りを破られ音と光に驚く動物たちを眺めた。冬の夜空がきれいでたくさんの星が見えた。風はなかった。気温が低いので動物たちのほとんどはじっと身をひそめていた。いつもの通り静かな夜だった。つつがなく巡回を終え、あとはいくらでものんびりできる状態にして、最後にゾウガメの小屋に入っていった。
ゾウガメが最後の火を燃やし尽くしたのはその夜のことだった。翌朝、目元を赤くした若い飼育員は退職の決意を告げる。親切な園長から理由を尋ねられても首を横に振るばかりで何も話そうとしなかったが、ふと「……をゾウガメに譲られたから」ともらし、さすがの園長も黙り込んでしまう。「とにかくゆっくり休んで、うちで契約しているカウンセラーを訪ねてごらん」と園長に送り出され、若者は動物園を出る。そのまま若者は家族にも何も言わずに旅に出てしまう。風を訪ねる旅に。
(「残り火」inspired by futo-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「残り火」inspired by futo-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
====================
◇ ゾウガメの飼育
そのゾウガメはかれこれ100年以上生きている。
若い飼育員は世話をしてやりながらも、どこかでゾウガメの方が自分よりも存在感があることを薄々感じている。格の違いを感じるのだ。たたずまいに。目つきに。落ち着き払ったその風格に。そう、風格、と若い飼育員は思ったものだった。すべての飼育員がそう感じるわけではない。鈍感な(と若い飼育員は思うのだが)中年の飼育員は、ゾウガメのことを特にどうとも思わないようだ。ただエサを与えて、時々甲羅をみがいてやる、大きくてのろまな生き物としか思っていない。
自分は違う。と若い飼育員は考える。自分はこのゾウガメの持つ偉大さを感じることができる、と。その風格をくっきり感じ取ることができる、と。
朝、世話をするため小屋に入ると、小屋の片隅でじっとしていたゾウガメはゆっくりと首をもたげ、静かな落ち着いた目で若者を見る。何者にも乱されることのない目つき。何もかも見通したような洞察に満ちた視線。場数を踏んでいるからだろうか、と若者は思う。100年分のいろいろな場面をたくさん見て知っているから、細かいことにいちいち動じなくなっているのだろうか。年の功ってやつだな。そこまで考えて若者は胸の内で笑ってしまう。亀の甲だし年の功ってわけだ。
ゾウガメがまったく食事をしなくなったのは秋の終わり頃だった。ある朝、若い飼育員がエサ箱の中が前日のままなのに気づいて早速獣医に連絡した。獣医はすぐに駆けつけてきたものの、ゾウガメを隅から隅までチェックして、特にどこか病気というわけではなさそうだ、と言った。老衰だろう、と。念のために採血もして帰っていったがやはり後日届いた結果も「異常なし」だった。そう知って若者はできるだけ世話をしてやろうと決意する。残り火が燃えている限り、おれが空気を送り火をおこしてやろう。
食べなくなってからもゾウガメは特に変わった様子もなく、いつものように首をもたげ、静かな目で若者を見て、時に数メートル移動した。見ていると太陽の光がさすときは日なたを選んで甲羅干しをしているようだった。何も食べなくなってから半月たっても見たところゾウガメには何の変化もないように思われた。さすがに若い飼育員は奇妙に感じ始めた。特に弱るわけでもない。動きも変わらないし、見たところ目もしっかりしているし、肌の様子も変わらない。甲羅のつやも変わらない。
どうなっているんだろう? 誰かが夜にエサを与えているのかも知れない。そう思いついて、その晩、当直だった若者は、夜間の小屋に入ることにした。ゾウガメが若者に話しかけたのはその夜のことだった。
若い飼育員は巡回の時間まで当直室でお気に入りの本を眺めていた。それは世界のいろいろな風景の写真に、その国の言葉で風の名前を記した本だった。心地よい微風、間断なく吹き体温を奪う風、すべてを乾燥させ野火を起こす熱波、作物をダメにする邪悪な風、世界にはいろいろな風が吹き、それぞれが名前を持っている。かつて若者は、そのすべての風を訪ね歩くのが夢だった。いまではもうそれが雲をつかむような夢のような話だということがよくわかっている。だからお気に入りの本で写真を眺めるに留めている。
巡回の時間が来て、本を閉じ、懐中電灯を持って若者は当直室を出る。ゾウガメの宿舎を最後に順路を考えて、順番に見回り、夜行性の動物たちの活動や、眠りを破られ音と光に驚く動物たちを眺めた。冬の夜空がきれいでたくさんの星が見えた。風はなかった。気温が低いので動物たちのほとんどはじっと身をひそめていた。いつもの通り静かな夜だった。つつがなく巡回を終え、あとはいくらでものんびりできる状態にして、最後にゾウガメの小屋に入っていった。
ゾウガメが最後の火を燃やし尽くしたのはその夜のことだった。翌朝、目元を赤くした若い飼育員は退職の決意を告げる。親切な園長から理由を尋ねられても首を横に振るばかりで何も話そうとしなかったが、ふと「……をゾウガメに譲られたから」ともらし、さすがの園長も黙り込んでしまう。「とにかくゆっくり休んで、うちで契約しているカウンセラーを訪ねてごらん」と園長に送り出され、若者は動物園を出る。そのまま若者は家族にも何も言わずに旅に出てしまう。風を訪ねる旅に。
(「残り火」inspired by futo-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
最近のコメント