【お題96】お好み焼きをおかずに白米を食べる理由 ― 2008/04/18 00:07:59
「お好み焼きをおかずに白米を食べる理由」と言う言葉がどこかに出てくる作品をお待ちしています。
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「お好み焼きをおかずに白米を食べる理由」ordered by フィリピンパブ-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
====================
◇ 受容の需要
では始めましょうか。
かつてある劇団にひとりの役者がいたとしましょう。男でも女でも構わない。劇団を背負って立つ看板役者です。実力もあれば場数も踏んでいる。共演に誰が来てもだいたい合わせられる。相手を選ぶことなく、引き受けてみせる。個性的かというと確かに個性的でもあるが、むしろあまりクセはなく、相手との絡みの中でどんどん味が出てくるタイプといっていいでしょう。
実際その活躍は見事でした。特に演技体の違う役者を客演に呼んだときなど出色と言って良かったでしょう。朗々たる節回しが特長の年輩の役者を招いたときは、その節回しそのものに新鮮に反応することで、演技体の問題ではなく個人の身体のクセとして迎え入れることに成功する。舞台上をせわしなく所狭しと駆けめぐり、アクロバットめいた身体表現が特長の劇団からの客演の時には、同様な身体表現をもどかしく使うことで、ある種、「手話」のようなコミュニケーション方法の熟練度の差として受け入れる。そういったことを直感的にやってのけるのでした。
こうして劇団は、次々と変わる客演陣の強烈な個性の魅力と、どんな客演が来ても平然と飲み込んでみせる看板役者の懐の深さで、名声を築くことができたのです。
ある時、不思議な個性の客演がやってきました。それはいままでとは違い、どこと言って演技体の差を語りにくい、でも明らかに世界の違う役者でした。その「違い」を個人の特異な性癖や、コミュニケーション手段の技術のように見せることは困難でした。なぜならその「違い」は、言ってみれば「住んでいる世界そのものの違い」とでも言うべきものだったからです。ここにいたって看板役者は追い込まれます。いままでは看板役者が直感的に対応する演技体を編み出し、他の劇団員はそれに従えばよかったのですが、今回ばかりは解決策が見つからず、稽古を重ねても客演の存在は浮き続けていました。要するに大いなる違和感として、世界を共有し得ないものとして、はみだし続けていたのです。
いままではどこからどう見てもはみ出してしまう客演の存在を、いわば劇団の世界の中に上手にソフトランディングさせることができていたのが、全く通用しない。上演の日程は迫り、解決策は見つからないまま。初めて看板役者に焦りが見え、そのことは劇団全体に動揺を与えます。いままではそういうことに頭を使う機会がなかった演出家はただ右往左往し、試行錯誤を重ねては、かえって混乱を招くような指示をするばかり。客演は自分が受け入れられていないことを日々感じ取り、責任と苛立ちにバランスを失っていく。
看板役者。それは言うなれば白米です。主食と呼ばれ、わたしたちの文化の象徴のようにされつつも、その日その日わたしたちの関心を引きつけるのは、残念ながら白米ではありません。「今日はぶりの照り焼きが食べたい」「今日はコロッケが食べたい」「今日は麻婆豆腐が食べたい」という具合に、その日ごとに関心を引くのは白米ではなく、あくまでおかずです。そのおかずの中に含めるべきかどうか悩ましい存在があります。それは白米同様に炭水化物を主体とする食べ物です。不思議な個性の役者はつまりお好み焼きのような存在だったと言っていいでしょう。
結果、この公演はどうなったか。悲惨な失敗を迎えたのか。いいえ、違います。最終的には客演を含め全てのスタッフとキャストを巻き込んだ悪あがきの果てにいつしか見つかったのは、「そういう文化」というものでした。世界の違うもの同士がぶつかり、その世界の違いそのものと取っ組み合いながら、共存しがたいところを共存してしまう。「そこにあるんやから、しゃあないやないか」という文化。それを公演の裏テーマのように染み渡らせることで、いわば見るも新鮮な異文化の創造に成功したのです。それは客演の手柄でも看板役者の手柄でもなく、いわば共同体そのものの勝利でした。
これこそ、わたしたちがお好み焼きをおかずに白米を食べる理由なのです。
(「お好み焼きをおかずに白米を食べる理由」ordered by フィリピンパブ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「お好み焼きをおかずに白米を食べる理由」ordered by フィリピンパブ-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
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◇ 受容の需要
では始めましょうか。
かつてある劇団にひとりの役者がいたとしましょう。男でも女でも構わない。劇団を背負って立つ看板役者です。実力もあれば場数も踏んでいる。共演に誰が来てもだいたい合わせられる。相手を選ぶことなく、引き受けてみせる。個性的かというと確かに個性的でもあるが、むしろあまりクセはなく、相手との絡みの中でどんどん味が出てくるタイプといっていいでしょう。
実際その活躍は見事でした。特に演技体の違う役者を客演に呼んだときなど出色と言って良かったでしょう。朗々たる節回しが特長の年輩の役者を招いたときは、その節回しそのものに新鮮に反応することで、演技体の問題ではなく個人の身体のクセとして迎え入れることに成功する。舞台上をせわしなく所狭しと駆けめぐり、アクロバットめいた身体表現が特長の劇団からの客演の時には、同様な身体表現をもどかしく使うことで、ある種、「手話」のようなコミュニケーション方法の熟練度の差として受け入れる。そういったことを直感的にやってのけるのでした。
こうして劇団は、次々と変わる客演陣の強烈な個性の魅力と、どんな客演が来ても平然と飲み込んでみせる看板役者の懐の深さで、名声を築くことができたのです。
ある時、不思議な個性の客演がやってきました。それはいままでとは違い、どこと言って演技体の差を語りにくい、でも明らかに世界の違う役者でした。その「違い」を個人の特異な性癖や、コミュニケーション手段の技術のように見せることは困難でした。なぜならその「違い」は、言ってみれば「住んでいる世界そのものの違い」とでも言うべきものだったからです。ここにいたって看板役者は追い込まれます。いままでは看板役者が直感的に対応する演技体を編み出し、他の劇団員はそれに従えばよかったのですが、今回ばかりは解決策が見つからず、稽古を重ねても客演の存在は浮き続けていました。要するに大いなる違和感として、世界を共有し得ないものとして、はみだし続けていたのです。
いままではどこからどう見てもはみ出してしまう客演の存在を、いわば劇団の世界の中に上手にソフトランディングさせることができていたのが、全く通用しない。上演の日程は迫り、解決策は見つからないまま。初めて看板役者に焦りが見え、そのことは劇団全体に動揺を与えます。いままではそういうことに頭を使う機会がなかった演出家はただ右往左往し、試行錯誤を重ねては、かえって混乱を招くような指示をするばかり。客演は自分が受け入れられていないことを日々感じ取り、責任と苛立ちにバランスを失っていく。
看板役者。それは言うなれば白米です。主食と呼ばれ、わたしたちの文化の象徴のようにされつつも、その日その日わたしたちの関心を引きつけるのは、残念ながら白米ではありません。「今日はぶりの照り焼きが食べたい」「今日はコロッケが食べたい」「今日は麻婆豆腐が食べたい」という具合に、その日ごとに関心を引くのは白米ではなく、あくまでおかずです。そのおかずの中に含めるべきかどうか悩ましい存在があります。それは白米同様に炭水化物を主体とする食べ物です。不思議な個性の役者はつまりお好み焼きのような存在だったと言っていいでしょう。
結果、この公演はどうなったか。悲惨な失敗を迎えたのか。いいえ、違います。最終的には客演を含め全てのスタッフとキャストを巻き込んだ悪あがきの果てにいつしか見つかったのは、「そういう文化」というものでした。世界の違うもの同士がぶつかり、その世界の違いそのものと取っ組み合いながら、共存しがたいところを共存してしまう。「そこにあるんやから、しゃあないやないか」という文化。それを公演の裏テーマのように染み渡らせることで、いわば見るも新鮮な異文化の創造に成功したのです。それは客演の手柄でも看板役者の手柄でもなく、いわば共同体そのものの勝利でした。
これこそ、わたしたちがお好み焼きをおかずに白米を食べる理由なのです。
(「お好み焼きをおかずに白米を食べる理由」ordered by フィリピンパブ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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