【お題17】ハングル ― 2007/12/13 12:18:56
「ハングル」と言う言葉がどこかに出てくる作品をお待ちしています。
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「ハングル」ordered by aisha-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
====================
◇ ある芸術家の悲劇
共感覚というものがあって、色を見ると特定の音が聞こえたり、あるいは数字を思い浮かべると同時に色や風景が浮かんでくるといったものが有名である。つまり本来別々に感じられるはずの聴覚や視覚がある種の“混線”を起こしたような状態だ。なぜそんなことが起こるのか。仮説はいろいろあるが説明はできない。
最初、「芸術家」の共感覚は月並みなものだった。音の刺激が色を呼び起こすので、いろんな音楽を聴いて浮かんでくる色をどんどん塗りつけていくと一つの作品ができあがるという具合だった。必要な能力は、絵の具を瞬時に混ぜ合わせて脳裏に浮かんだ色をすばやく塗りつけていくというどちらかというと手先の器用さだけあれば十分だった。1曲聞き終わると作品ができあがり、その曲のタイトルをそのまま作品につければ完成である。ジョン・レノン「ジェラス・ガイ」やビーチボーイズ「ペット・サウンズ」がまず当たり、群馬県民ホールの壁画にシューベルト「ピアノソナタニ長調」を描いたことで評価は高まった。
ところが間もなくこの共感覚は失われ、次にやってきたのは匂いが形を呼び起こすというものだった。曲を聴くようなやり方で匂いの刺激を受けると言うことは考えにくく、また一定の場所にいる限り匂いは変化に乏しいため、この能力を作品に反映することは至難の業と思われた。しかし「芸術家」はちゃんとブレークスルーを見つけた。世界中の街や名所を訪れて、その場所特有の匂いをフォルムとして描き出したのだ。「ブルックリン」「ソーホー」「モンマルトル」「ケルン大聖堂」「パッポン通り」「ゴビ砂漠」などがその時期の代表作でこのままいくとワールドワイドな名声を築くのも時間の問題と思われた。
けれどもこの共感覚も突然終わってしまった。
そして不思議な共感覚がやってきた。目に映るものすべてがハングルの文字に変換されてしまうのだ。もちろん景色は景色として見えているのだが、同時にその色や形や明るさなどの全てがハングルとして襲いかかってくるのだ。「芸術家」はハングルの規則も構成も知らないし、血縁に朝鮮半島の出身者がいるわけでもない。にもかかわらず浮かんでくるハングルはデタラメではなく実際に存在するものばかりで、しかも書きつけるとそれが黙示録的な文章になっているとされた。自分では意味も分からずに書き付けたものが文章として意味をなしているらしいとわかってから、「芸術家」はそれをそのまま世に出していいのかどうか悩み、韓国人の友人に自分が描いた作品を翻訳してもらうという作業をしてから作品を発表するという面倒くさい手続きを踏むことにした。
たとえばそれはこんな具合だ。トレドの街の遠景を描いた作品は「大いなる火事 にもかかわらず 広がるギャップ 飛び越えるは アホウドリ」といった詩のようなものになり、六本木ヒルズを描いた作品は「巨大ロケットの屹立するペニスは降り注ぐガラスの破片を芸術的に埋葬し船乗りの役に立たぬ灯台守はただ周囲にくまなく眼を配る」というような長大な呪文となり、「芸術家」の故郷の港を描いた絵は「虫取り網と帽子 友だちと友だちの友だちと友だちの友だちの友だち 裏切りと裏切られ 初恋の動悸 無力感と屈辱 へこんだ弁当箱 通学路の階段」といった具合に記憶の博物館のようなものになった。
翻訳を読み返しながら「芸術家」はそれが個人的に非常に的確な言語化であることに気づく。なぜハングルなんだろう。なぜ最初から母国語にならないのだろう。あるいは自分は知らないだけで朝鮮半島の出身なのだろうか。そしてハングルを学ぼうとし始めたタイミングで、またしても共感覚は失われてしまう。そして今度ばかりは替わりの共感覚は何も生まれてこない。そうなって初めて「芸術家」は自分を見つめ直すことになる。自分は何をもって芸術家だったのか。自分の作品とは何だったのか。そして──当たり前のことだが──見つめ直した自分は共感覚よりも説明不可能なことに気づく。
(「ハングル」ordered by aisha-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
タイトルに限らず、本文中のどこかに1回出てくればOKです。
作品の最後に
(「ハングル」ordered by aisha-san/text by あなたのペンネーム)
とつけてください。これはお題を出した人への礼儀と言うことで。
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◇ ある芸術家の悲劇
共感覚というものがあって、色を見ると特定の音が聞こえたり、あるいは数字を思い浮かべると同時に色や風景が浮かんでくるといったものが有名である。つまり本来別々に感じられるはずの聴覚や視覚がある種の“混線”を起こしたような状態だ。なぜそんなことが起こるのか。仮説はいろいろあるが説明はできない。
最初、「芸術家」の共感覚は月並みなものだった。音の刺激が色を呼び起こすので、いろんな音楽を聴いて浮かんでくる色をどんどん塗りつけていくと一つの作品ができあがるという具合だった。必要な能力は、絵の具を瞬時に混ぜ合わせて脳裏に浮かんだ色をすばやく塗りつけていくというどちらかというと手先の器用さだけあれば十分だった。1曲聞き終わると作品ができあがり、その曲のタイトルをそのまま作品につければ完成である。ジョン・レノン「ジェラス・ガイ」やビーチボーイズ「ペット・サウンズ」がまず当たり、群馬県民ホールの壁画にシューベルト「ピアノソナタニ長調」を描いたことで評価は高まった。
ところが間もなくこの共感覚は失われ、次にやってきたのは匂いが形を呼び起こすというものだった。曲を聴くようなやり方で匂いの刺激を受けると言うことは考えにくく、また一定の場所にいる限り匂いは変化に乏しいため、この能力を作品に反映することは至難の業と思われた。しかし「芸術家」はちゃんとブレークスルーを見つけた。世界中の街や名所を訪れて、その場所特有の匂いをフォルムとして描き出したのだ。「ブルックリン」「ソーホー」「モンマルトル」「ケルン大聖堂」「パッポン通り」「ゴビ砂漠」などがその時期の代表作でこのままいくとワールドワイドな名声を築くのも時間の問題と思われた。
けれどもこの共感覚も突然終わってしまった。
そして不思議な共感覚がやってきた。目に映るものすべてがハングルの文字に変換されてしまうのだ。もちろん景色は景色として見えているのだが、同時にその色や形や明るさなどの全てがハングルとして襲いかかってくるのだ。「芸術家」はハングルの規則も構成も知らないし、血縁に朝鮮半島の出身者がいるわけでもない。にもかかわらず浮かんでくるハングルはデタラメではなく実際に存在するものばかりで、しかも書きつけるとそれが黙示録的な文章になっているとされた。自分では意味も分からずに書き付けたものが文章として意味をなしているらしいとわかってから、「芸術家」はそれをそのまま世に出していいのかどうか悩み、韓国人の友人に自分が描いた作品を翻訳してもらうという作業をしてから作品を発表するという面倒くさい手続きを踏むことにした。
たとえばそれはこんな具合だ。トレドの街の遠景を描いた作品は「大いなる火事 にもかかわらず 広がるギャップ 飛び越えるは アホウドリ」といった詩のようなものになり、六本木ヒルズを描いた作品は「巨大ロケットの屹立するペニスは降り注ぐガラスの破片を芸術的に埋葬し船乗りの役に立たぬ灯台守はただ周囲にくまなく眼を配る」というような長大な呪文となり、「芸術家」の故郷の港を描いた絵は「虫取り網と帽子 友だちと友だちの友だちと友だちの友だちの友だち 裏切りと裏切られ 初恋の動悸 無力感と屈辱 へこんだ弁当箱 通学路の階段」といった具合に記憶の博物館のようなものになった。
翻訳を読み返しながら「芸術家」はそれが個人的に非常に的確な言語化であることに気づく。なぜハングルなんだろう。なぜ最初から母国語にならないのだろう。あるいは自分は知らないだけで朝鮮半島の出身なのだろうか。そしてハングルを学ぼうとし始めたタイミングで、またしても共感覚は失われてしまう。そして今度ばかりは替わりの共感覚は何も生まれてこない。そうなって初めて「芸術家」は自分を見つめ直すことになる。自分は何をもって芸術家だったのか。自分の作品とは何だったのか。そして──当たり前のことだが──見つめ直した自分は共感覚よりも説明不可能なことに気づく。
(「ハングル」ordered by aisha-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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